清崎城 (きよさきじょう) (糸魚川城)
所在地 新潟県糸魚川市一の宮1丁目2−5 2017.6.7
清崎城 (きよさきじょう) (糸魚川城)
所在地 新潟県糸魚川市一の宮1丁目2−5 2017.6.7
糸魚川市役所
亀が丘体育館南・土塁
清崎神社北の堀
太鼓橋
清崎神社
清崎城跡(地図)
【遺構★★☆☆☆】
【感想】 微高地となっている糸魚川市役所一帯が城跡とされ、北東側にある清崎神社北の池は堀跡と云われている。
【案内】 糸魚川市役所(表記番地)の北東側にある清崎神社の北に水堀跡がある(地図)。
亀が丘体育館南に土塁状の高まりがある。また、東の天津神社との間に堀跡のような低地が南北にある。
【歴史】 交通の要衝であった糸魚川一帯は、それまで山城である根知城が支配の中心であった。
慶長三年(1598年)、上杉氏の会津移封に伴い、堀秀治が越前より越後に移封された。
髙田城主堀秀治の一族堀清重が根知城主となるが、上杉遺民一揆で荒廃した根知城に代わり、慶長六年(1601年)清崎城を築いた。
慶長十五年(1610年)堀家の御家騒動で堀忠俊が改易された。代わって徳川家康の六男、松平忠輝が福島城主となると、清崎城には忠輝重臣の松平信宗、続いてその子信直が在城した。
元和二年(1616年)松平忠輝が改易されると、徳川四天王家の一つである酒井氏2代を経て、元和二年(1616年)福井から高田へ転封してきた松平忠昌の領地となり、家臣の稲葉正成が清崎城に入城した。
その後、荻田主馬長繁が城代となり、荻田隼人・荻田本繁と続いたが、天和元年(1681年)、藩の相続争いである「越後騒動」で松平光長が改易となると清崎城も廃城となった。