霧山城 (きりやまじょう) (多気城・多芸御所)(たげごしょ) (国の史跡)
所在地 三重県津市美杉町上多気1148 2016.4.2
霧山城 (きりやまじょう) (多気城・多芸御所)(たげごしょ) (国の史跡)
所在地 三重県津市美杉町上多気1148 2016.4.2
登城ルート(緑は館詰城跡/青は鐘突堂跡)
霧山城登山口碑
北畠氏館跡庭園碑
居館跡・庭園
詰城主郭跡
鐘突堂跡
本丸跡・霧山城阯碑
米倉跡・本丸跡
霧山城址碑
竪堀
矢倉跡
霧山城 本丸跡(地図)
【遺構★★★★☆ 比高240m】
【案内・感想】 県道30号線西に北畠神社(表記番地)があり、参詣用駐車場が用意されている。多芸御所は北畠神社境内であり、居館跡は神社南に「北畠氏館跡庭園」となり、有料で見学できる。
庭園の南側の垣根に沿って西に行き、神社神撰田の先より比高約80m登ると、北畠氏館詰城跡がある(地図)。東に帯郭があり西に堀切がある。
尾根伝いに約500m登ると二の丸跡があり、その西に登ってゆくと「鐘突堂跡」がある(地図)。北西に下って登り、約200m行くと標高約563m比高約240mの頂上に本丸跡がある。
本丸跡は土塁が残り、石碑が建てられている。西に米倉跡がある。東に堀切とそれに続く竪堀があり、矢倉跡の平坦地がある。
昭和十一年(1936年)9月3日、多気北畠氏城館跡として、北畠氏館跡・霧山城跡が国の史跡に指定された。
平成十八年(2006年)7月28日、館跡全域、山城と館跡をつなぐ範囲について追加指定し、名称が変更された。
【歴史】 南北朝時代初期、北畠氏の拠点であった南勢(伊勢国南部)にある平地の城郭は次々に落城し、北畠顕能(あきよし)は長期戦に耐えうる城として興国三年(1342年)または翌年に、一志郡多気に城を構えた。
当時17歳であった顕能は、交通の要所であったことから多気を選んだ。南北朝期の大小数十回に及ぶ戦では、北畠軍は1度を除いて霧山城から出陣していた。その後、出陣の拠点は阿坂城(白米城)へ移った
正平年間になると、南朝方の軍勢は、北畠氏と楠木氏だけになっていた。正平三年/貞和四年一月五日(1348年2月4日)、四条畷の戦いで楠木正行が討ち取られ、正行を破った北朝方の高師直は吉野へ攻め入り、皇居に火を放った。急報を受けた顕能は500騎を率いて多気より馳せ参じ、恐れを成した足利氏は退却した。
顕能は弘和三年/永徳三年七月二十八日(1383年8月27日)に58歳にして多気山荘にて亡くなった。
元中九年/明徳三年閏十月五日(1392年11月19日)、明徳の和約に従って南北朝が統一された。
しかし、明徳の和約で約束されていた両統迭立(かわるがわるに即位)は称光天皇の即位によって破られ、応永二十二年(1415年)春に北畠満雅は阿坂城から挙兵した。
この頃の霧山城に関連する記録としては、正長元年(1428年)七月に小倉宮聖承が京都嵯峨から逃亡し、同年七月十六日(8月26日)に室町幕府は多気付近にいることを確認、更に同月十九日(8月29日)には少なくとも9日前)から多気より奥にある興津(現・津市美杉町奥津)に潜んでいることを突き止めた、ということのみである。
小倉宮は翌正長二年(1429年)三月まで霧山城でかくまわれていたが、その後行方不明となった
満雅の代までの北畠氏は北朝や室町幕府と対立してきたが、北畠教具(のりとも)は赤松教康を殺害したことで幕府の心証を良くし、文明十六年(1484年)四月に9代将軍足利義尚は伊勢神宮への参詣途上で霧山城に立ち寄った。
明応八年(1499年)に霧山城は焼失し、永正三年(1506年)に再建された。
永禄末期になると、織田信長が北勢(伊勢国北部)に侵攻してきたため、霧山城に次ぐ要衝であった大河内城(おかわちじょう)へ本拠を移した。
霧山城には城代として北畠政成を残した。さらに木造 (こつくり)城主の木造具政(ともまさ)は北畠本家に対して、永禄十二年(1569年)五月に謀反を起こし、同年八月には信長が木造城入りした。
そして北畠と織田の戦闘が阿坂城とその支城の高城、そして船江城を舞台に繰り広げられ、同年八月二十八日(十月八日)には大河内城の戦いが始まった。この戦いでは、50日に及ぶ籠城戦の末、信長の子・織田信雄を北畠具房の養子にするなどの条件で和睦した。
天正三年(1575年)、信長は具房を隠居させ、信雄を大河内城から田丸城へ移した。そして翌天正四年(1576年)十一月、信雄は討主に命じて三瀬御所を攻撃させ、北畠具教と北畠一族の13人を殺害し、事実上北畠氏は滅亡した。
三瀬御所で具教が殺害された直後、霧山城にも羽柴秀吉・神戸信孝・関盛信らが率いる大軍が送り込まれ、城代の北畠政成は必死に防戦したが、城館を焼き払われ、落城した(三瀬の変)。『ウィキぺディア』より。