二連木城 (にれんぎじょう) (仁連木城)
所在地 愛知県豊橋市仁連木町136−2 2014.12.8
二連木城 (にれんぎじょう) (仁連木城)
所在地 愛知県豊橋市仁連木町136−2 2014.12.8
大口公園・城址碑
城址碑
本丸・土塁
空堀跡
二連木城本丸跡(地図)
【遺構★★★☆☆】
【案内・感想】 豊橋市仁連木老人福祉センター(表記番地)の敷地が二の丸跡で、空堀の道路を挟んで、西の大口公園が本丸跡である。一方通行の道に面した老人福祉センター駐車場を利用した[マップコード43 335 846*70]。
約600㎡の本丸には土塁がよく残り、櫓台に「二連木城址」の石碑が建てられている。南側入り口に案内板が建てられている。
本丸北に蔵屋敷、二の丸に続いて東曲輪、南曲輪がある。
公園の名は初代豊橋市長、衆議院議員であった大口喜六(1870~1957年〉に因む。
【歴史】 戸田宗光は、室町幕府政所執事の伊勢貞親に仕えていた。三河国守護の細川成之から三河国額田郡で狼藉を働く者の鎮圧願いが出され、八代将軍足利義政は戸田宗光と義父松平信光に命を下した。
宗光は義父松平信光と共に賊の首をあげ京へ送ったが、宗光は三河国で勢力を持ち始めた。
応仁の乱{応仁元年(1467年)~文明九年(1477年)}が始まり、群雄割拠の時代となると、文明七年(1475年)、渥美郡大津城(豊橋市老津町)に入り、文明九年(1477年)郡代一色政照(七郎)を渥美郡大草村(田原市)に隠居させ、政照の養子分になることで郡の統治権を得、文明十二年(1480年)に田原城を築城した。
明応二年(1493年)、豊川北岸の宝飯郡の長山一色城(現、豊川市牛久保町岸組66大聖寺)で、主君一色時家を討ち君臨していた波多野時政(全慶)と、同じ故一色時家家臣・牧野成時(古白)は灰野原の戦いを起こしていた。
宝飯郡で大混乱の年、宗光は渥美郡の北の端である朝倉川沿いの丘の上に二連木城を築城し、移った。
二連木城を渥美郡北部の根城とし、息子の戸田憲光に譲った田原城と共に戸田家の中心拠点となった。そして、戸田宗光は渥美郡完全制圧を図る。
永正五年(1508年)、戸田氏中興の祖・戸田宗光は没し、子の憲光は亡父宗光のために二連木城の近くに全久院(豊橋市東郷町)を建立した。
天正十八年(1590年)最後の二連木城主戸田康長(戸田松平家の祖で松平姓を受ける)は徳川家康の関八州への移封と共に去り、二連木城は主を失った。
しかし、松平姓を受け、徳川松平一族と同格となった仁連木戸田家は宗家を名乗り、田原戸田家は分家となった。
この年、この東三河地域(当時、四郡で総石高15万2千石)へ入った池田照政(のち播磨国姫路城へ移封時に輝政と改名)は吉田城を拠点とし、二連木城を廃城とした。