志賀城 (しがじょう)
最寄地 長野県佐久市志賀3611 2014.11.5
志賀城 (しがじょう)
最寄地 長野県佐久市志賀3611 2014.11.5
登城ルート(緑線は車道)
雲興寺東登り口
虎口
2郭虎口の石積
主郭石積
主郭・祠
堀切
西側曲輪石積
西側曲輪石垣
志賀城 主郭跡(地図)
【遺構★★★☆☆ 比高140m】
【案内・感想】 雲興寺(表記番地)東の墓地のフエンスの横に登山道がある(標識無し)[マップコード292 273 597*46](地図)。
100m程直進し、左に登って行くと断崖の岩場の下を西に行き尾根を北に登ると虎口に着く。比高約140m東西約300mの細長い城跡である。
虎口より東に行くと、石垣の通路があり更に登ると、堀切があり、篠竹の本丸があり、祠が祀られている。
虎口西側にも堀切、曲輪が二、三あり石垣・石積遺構が残っている。
虎口のはっきりせず案内標識などは一切なく、間違えると迷い断崖が多く下りられなくなるので、目印を付けるなど注意を要する。
【歴史】 志賀城の築城時期は不明である。 戦国時代、笠原清繁が城主であった。
武田晴信(信玄)は佐久郡を完全に制圧するため、天文十六年(1547年)志賀城を攻めた。笠原清繁は関東管領・上杉憲政の援軍を頼みにし、志賀城には上野国の武将、高田憲頼も援軍として入城していた。
また、武田軍が志賀城を囲んでから、更に上杉憲政の援軍が碓氷峠を越えて志賀城へ向かったが、晴信が派遣した板垣信方、甘利虎泰、横田高松らにより、小田井原(北佐久郡御代田町)の戦いで、上杉氏の援軍は壊滅させられた。
晴信は、志賀城の士気の低下を狙い、城の周りに首級三千を掛け並べさせたと伝えられている。やがて城は落城し、笠原清繁、高田憲頼ら城兵三百余りが戦死し、生け捕りになった者は奴隷労働者とされ、黒川金山などへ人身売買された。