御峰城 (おみねじょう) (土山御坊・土山砦)(どやまとりで)
最寄地 富山県南砺市土山753 2014.10.24 2017.6.24
御峰城 (おみねじょう) (土山御坊・土山砦)(どやまとりで)
最寄地 富山県南砺市土山753 2014.10.24 2017.6.24
説明板
登城ルート(緑線は車道)
庭園・説明板
蓮如上人像・庭園
南側の 古塁の上面
山城標識
入口・水道メーター
堀切
砦跡・御峰城の標柱・配水池
土山御坊跡(地図)
【遺構★★★☆☆】
【感想】 富山県と石川県の県境にほど近い御峰山(標高261m)の頂上部から麓の平坦地にかけて築かれた山城である。
この辺りにはそれ以前に一向一揆勢の拠点、土山御坊(どやまごぼう)が在った時期があり、両者の遺構は重複している。
配水タンクのメーターから登ると、深い堀切がよく残っている。その端から登ると、配水タンクのある砦跡があり、「御峰城(土山砦)」の標柱が建てられている(地図)。前回は鬱蒼としていたが、今回は草が刈られ、撮影できた。
堀切を挟んだ南東山頂も広く、郭跡と思われる。
【案内】 南東の市道の「蓮如上人旧跡入り口」の石碑の建つ道に入り[マップコード122 247 729*04]、約500m登ると「土山御坊跡」に着き、路駐した。
表記番地の東に隣接して、「土山御坊跡」の碑、説明板が建てられ、蓮如上人像が建てられている。杉浦萬兵衛庭園があり、南に古土塁がある。
御坊跡とされる平坦地は東西30m、南北25m程度であるが、その南には付近を治め、本願寺の支援者でもあった土豪、杉浦万兵衛の屋敷と伝わる「万兵衛屋敷」と呼ばれる場所が在り、これは東西約70m、南北約60mの方形で周囲には空堀を備えていた。
また、すぐ西の山頂に、佐々成政によって築かれた「土山砦」があり(地図)、現在配水場タンクが設置され、堀切が残っている。
昭和三十六年(1961年)8月30日、南砺市の史跡に指定された。
【歴史】 文明三年(1471年)、本泉寺(土山御坊の西南西約5㎞・石川県金沢市二俣町子8)住持であった如乗(本願寺六世巧如の次男)の妻、勝如尼(本願寺五世綽如の三男周覚の娘)によって創建され、本願寺八世蓮如の四男である廉誓が入った。
なお、蓮如が杉浦万兵衛宅に寄寓していた時に建てられたという説も在る『現地説明板』。
土山御坊はやがて勝興寺という寺号を頂戴し、次男の蓮乗を後継とし、井波の瑞泉寺の復興に当たった。
蓮乗は本泉寺、瑞泉寺を掛け持つ立場にあり、蓮如の四男・蓮誓を土山御坊に住まわせ、蟹谷一帯の布教に当たらせた。越中瑞泉寺や越中善徳寺と共に越中一向一揆の最重要拠点として発展していく。
文明十三年(1481年)二月、砺波郡に勢力を誇った福光城主石黒光義が同族の加賀守護富樫政親の要請を受けて、医王山惣海寺と組んで瑞泉寺らと戦うが敗退(田屋川原の戦い)。これを契機に礪波郡は徐々に一向一揆衆の支配下に組み込まれていった。
この時土山御坊は直接的な参戦はしていない様だが、加賀の門徒に働きかけて背後から惣海寺、福光城を攻撃させたのではないかと考えられている。
明応三年(1494年)、蓮誓によって越中礪波郡高木場(現・南砺市高窪)に移転した。
永正・大永年間(1504~28年)、「土山ノ古城」に向田孫右衛門尉が家臣の稗田甚助と共に拠り、向田孫右衛門尉は一向宗に帰依したという。
永禄・天正年間(1558~92年)、神保氏の家臣、上田左近なる侍大将が拠って敵を防いだという。
天正十二年(1584年)前後、佐々成政が前田利家に対する防衛拠点の一つとして御峰城を築き、稗田善助、青木孫右衛門を入れてこれを守らせた。しかし、その後の戦局の変化(豊臣秀吉との直接対決が不可避となり、佐々軍は兵力を集中させ敵を領内で迎え撃つ戦術へと移行した)に伴って放棄されたと思われる。
成政が敗退して越中から去り(富山の役)、前田領となってからは再び、豪族杉浦万兵衛が居住し、江戸時代に亘って栄えたと言う。
勝興寺は土山、高木場から小矢部市末友へ移転(安養寺御坊)、戦火による焼亡を経て高岡市伏木古国府の地(勝興寺)に落ち着き、前田氏の手厚い保護を受け隆盛を極め、現在に至っている。