小出城 (こいでじょう)
所在地 富山県富山市水橋小出 2014.10.4
小出城 (こいでじょう)
所在地 富山県富山市水橋小出 2014.10.4
説明板
小出神社
小出神社背後
【遺構★☆☆☆☆】
【案内・感想】 県道15号線より毫照寺(富山市水橋小出55)の北を約120m行った小出神社が城跡の一部であり、説明板が建てられている[マップコード144 517 627*74](地図)。周囲より微高地となっている。
小出神社周辺に在ったとする言い伝えは在ったが、長らくその正確な場所は不明であった。
【発掘調査】 しかし、平成十五年~十七年度の発掘調査によって小出神社の北方約150mのところで堀が見つかり、巾約5~13m深さ0.5~1.8mであった。堀からはかわらけ、陶磁器、漆器などの木製品、五輪塔などの石製品、刀剣の柄、弾丸、などの金属製品、馬の骨などが出土し、これらは十六世紀前半の遺物で小出城が神社の北側にあったことを示している。
【歴史】 この一帯を支配していた国人、唐人(かろうど)氏の居城であった。唐人氏はその名が示す通り大陸由来の氏族と思われる。
天文十四年(1545年)越後長尾氏と従属関係にあった松倉城主・椎名長常に仕えていた式部大輔唐人兵庫によって築かれた。
当時椎名氏は東へと勢力を伸ばしていた富山城主・神保長職との攻防は主に小出川を挟んで繰り広げられていた。小出城はその最前線に位置しており、椎名側にとって川を挟んで神保側の越中国鶯野城と睨み合う、防衛上重要な拠点であった。
永禄九年(1566年)揖斐庄(弓庄)助五郎が拠ったが、上杉謙信に攻略され、上杉方の唐人親広が拠った。
天正六年(1578年)三月十三日、謙信が死去し、親広は願海寺城主寺崎盛永や木舟城主石黒成綱らと同様に、上杉方より織田方へ寝返った。
天正九年(1581年)三月、佐々成政の留守をついて、上杉家臣で松倉城主河田長親が兵を率いて小出城を攻めたが、織田方の佐々成政配下の侍大将で城主の久世但馬守が良く持ち堪え、且つ沼地に手こずるなどして上杉方が攻めあぐねている間に成政らが帰還し、両者は現在の富山県富山市新庄辺りで戦った。
戦いは織田方の成政の勝利に終わり、敗れた長親は松倉城へと撤退した(荒川の戦い)。
同年六月、本能寺の変が起き、織田方の混乱に乗じて上杉方の須田満親が小出城を奪取した。
天正十一年(1583年)二月、成政が須田満親の拠る魚津城を包囲し、満親は魚津城と小出城を明け渡す事を条件に開城、退去した。
同月、成政の支配に抵抗していた弓庄城主土肥政繁が小出城と新庄城を攻め落とした。しかし維持する力は無く、まもなく撤退した。
天正十三年(1585年)豊富秀吉による富山の役で成政が敗れ平定されると、小出城は役目を終え、廃城になったと考えられる。