高根城 (たかねじょう)
最寄地 静岡県浜松市天竜区水窪町地頭方117 2016.3.13
高根城 (たかねじょう)
最寄地 静岡県浜松市天竜区水窪町地頭方117 2016.3.13
登城ルート(緑線は車道)
駐車場・高根城公園入口
南の城公園
二重堀切・奥が三の曲輪
二の曲輪手前の堀切
二の曲輪・奥が主郭
主郭手前の堀切
空堀・橋・城門
城主慰霊碑
井楼櫓
高根城 主郭跡(地図)
【遺構★★★★★ 比高50m】
【案内・感想】 県道389号線の東約350mに「高根城公園」「林道立山線」の道標がある。舗装された林道立山線を1.3km登って行くと、終点に駐車場があり、「高根城址公園」の石碑が建てられている[マップコード386 824 534*16](地図)。
左に登ってゆくと標高447mの「南の城公園」(地図)に着き、四阿、展望台が建てられている。一旦下って北に約210m行くと、北より主郭、二の曲輪、三の曲輪と並んだ景観が一望でき、標高約416mの山頂に説明板が建てられている。
三の曲輪の南に見事な二重堀切があり、横堀東側に通路が付けられている。その北に深い堀切で区分された二の曲輪がある。
各曲輪は柵列を巡らし、北側の主郭には搦手門、奥山氏供養塔、管理棟(稲荷神社)、井楼櫓(物見櫓)、礎石建物、土塀、大手門が復元されている。
供養塔には高根城主として、奥山金吾正定則・同大膳亮良茂・同能登守定之・同民部少輔貞左の名が刻まれている。
北方に水窪中学校校舎をはじめとする水窪(みさくぼ)町地頭方の町並や、右手に山の斜面に張り付く集落が望める。
辺鄙な山奥にはるばるきて、期待は薄かったが一見の価値がある城跡である。
【歴史】 城の創築は、出土遺物から15世紀前半、当地の国人領主奥山氏が築いたと考えられる。その後、今川氏親から安堵状を得ている為、15世紀末から今川配下に組み入れられたと思われる。
奥山氏支配は、今川家の没落と、武田氏・徳川氏が台頭した永禄年間後半頃に大きく変化した。
『遠江国風土記伝』によると、永禄年中(1558~70年)に、信州の遠山土佐守に攻められ落城したと伝わる。
永禄十二年(1569年)には、今川氏真(うじざね)・徳川家康双方から所領安堵状を得、元亀三年(1572年)には、武田信玄からも安堵状を得ている。遠州忩劇(そうげき)の頃、奥山氏内部で、今川・徳川・武田のどこに与するかで、内部分裂が起こり、奥山惣領家が滅亡し、最終的には傍系が武田氏配下に組み込まれた可能性が高い。
元亀三年(1572年)三月八日には、武田軍が在番することが可能な城となっていたことが、高遠城の保科筑前守に対した武田勝頼の28ヶ条の軍役条目から判明している。
天正四年(1576年)遠江から武田氏勢力が一掃されると、高根城も廃城となったと推定される。
現在みられる高根城は、出土遺物やその構造から、元亀二年(1571年)~天正四年(1576年)の間に、武田氏の手によって大きく改修されてものである。
江戸時代に、奥山氏を祀る稲荷神社が造られ、現在も山頂に稲荷が祀られている。この稲荷神社に伴う改変を若干受けているが、武田氏の原型を良くとどめている。『水窪町教育委員会説明板』より。