小岩嶽城 (こいわたけじょう)
所在地 長野県安曇野市穂高有明3497‐9 2014.6.17 2016.11.13
小岩嶽城 (こいわたけじょう)
所在地 長野県安曇野市穂高有明3497‐9 2014.6.17 2016.11.13
登城ルート
砦門
のろし展望台
本郭・慰霊碑
小岩嶽城戦没者慰霊碑
小岩神社
詰郭北側(奥が高い)
詰郭南側
南側堀切
南尾根の岩場
小岩嶽城 本郭跡(地図)
【遺構★★★☆☆ 比高230m】
【感想】 今回意を決し、詰城へ大手から登ってみた。右手の尾根を目指して登ってゆくと、止め山のバラ線が見えてきた。尾根筋は急で、バラ線の左側を付かず離れず目印にして直登し、頂上へ出た。
詰城の主郭は2段になり、南が少し高く、細長い郭となっている。中央を南北にバラ線が張られている。取立てて見るべき程のことはない。
南に下ると堀切があり、岩場の尾根に続いている。下りは砂状の道が多く、むしろ大手の方が登りやすいと感じた。
【案内】 県道25号線の表記番地の西に駐車場[マップコード158 370 197*14]があり、小岩嶽城址公園として整備されている。駐車場の西に「砦門」が模擬的に建てられ、その南から登ってゆくと、「のろし展望台」が建てられている。その西は松茸栽培地となり進入禁止になっている。
砦門の北から西へ登ると曲輪群があり土塁が残っている。一番広い曲輪に小岩神社、四阿があり奥に「小岩嶽城戦没者慰霊碑」が建てられている。
南の尾根の「のろし展望台」から登ってみたが、有刺鉄線が張られ、止め山となっている。なんとか大岩の先まで登ったが、それらしい雰囲気も無く撤退した。詰の城は比高約230mの西の山頂にある(地図)。
【歴史】 中世仁科氏庶流の古厩氏が領有していた安曇郡穂高有明の古厩荘に、大永二年(1522年)仁科盛国が築城した。国人領主の仁科氏は信濃国守護・小笠原氏とは闘争の末に服属することとなり、臣下にあっても小笠原氏を警戒する狙いがあったものと思われる。
天文年間、武田晴信は信濃への侵攻を開始した。『高白斎記』によると、天文二十年(1551年)十月二十七日武田軍に攻められ放火された。
翌天文二十一年(1552年)八月十二日、武田軍は3千人の兵により、5百人で守る小岩嶽城を攻撃した。城主の小岩成親は三ヶ月にわたる籠城の末、敗れ自刃し、十一月十四日落城した。
この戦いの様子は『勝山記』(妙法寺記異事ナシ)に「打取ル頚500余人、足弱(婦女子・老人のこと)取ル事数ヲ知ラズ」と悲運な最期が記されている。永禄四年(1561年)には仁科氏宗家も滅亡した。
その後、小岩嶽一帯の元々の領主である古厩氏は武田氏に従っていたが、天正十年(1582年)武田氏滅亡後は小笠原貞慶が旧領に復帰し、古厩氏も小笠原氏に従った。
しかし天正十一年(1583年)、小笠原氏に逆心を企てたという理由で成敗された。小岩嶽城はこの時点で古厩氏居城の古厩城とともに廃城になったと思われる。