沼津城 (ぬまづじょう) (三枚橋城・観潮城)
所在地 静岡県沼津市大手町4丁目3−51 2014.6.12 2014.7.1
沼津城 (ぬまづじょう) (三枚橋城・観潮城)
所在地 静岡県沼津市大手町4丁目3−51 2014.6.12 2014.7.1
説明板
中央公園
中央公園・沼津城本丸址碑
光長寺辻之坊の移築城門(中庭の門)
移築城門の由来
【遺構★☆☆☆☆】
【案内・感想】 「沼津大手町駐車場」(表記番地)[マップコード50 043 403*87]の建物背後に中央公園があり、その西側に沼津城本丸址碑と説明看板が建てられ(地図)、その周囲の石は昭和四十八年(1973年)の静岡相互銀行(現静岡中央銀行・大手町4丁目76)新築工事の際、地中より出た三枚橋城の石垣の石である。狩野川北岸に位置する。
又、沼津城中庭の門は光長寺辻之坊(沼津市岡宮1066)の山門に移築されている。
【歴史】 三枚橋城は、天正七年(1579年)武田勝頼が後北条氏の戸倉城に対抗して築城した。
天正八年(1580年)武田勝頼は三枚橋城に本拠をおいて戸倉城を攻めた。
関ヶ原の戦いの後、慶長六年(1601年)大久保治右衛門忠佐(ただすけ)が城主となったが、慶長十八年(1613年)嗣子なく忠佐が死去したため、大久保家は断絶となり、翌慶長十九年三枚橋城は廃城となった。
163年後の安永六年(1777年)、後に老中となる水野出羽守忠友が沼津に2万石を与えられ、廃城後荒れていた三枚橋城の跡地に築城した。
梯郭式平山城で狩野川に隣接して本丸、その北西に二の丸、三ノ丸が造られた。天守に相当する三層の櫓を本丸に建て、二の丸に御殿を置いた。
最終的には、水野家8代、5万石の城下町として栄えた。慶応四年(1868年)水野氏の菊間(千葉家県市原市)に転封の後、城の建物は沼津兵学校の施設として使われたが、明治四年(1871年)の兵学校廃止後、払い下げられて姿を消した。