猿倉城 (さるくらじょう) (舟倉城・栂尾城)
所在地 富山県富山市舟倉46 2014.10.23
猿倉城 (さるくらじょう) (舟倉城・栂尾城)
所在地 富山県富山市舟倉46 2014.10.23
登城ルート(緑線は車道)
公園駐車場・登り口
猿倉社
城跡碑・風力発電所
風力発電所
猿倉城跡(地図)
【遺構★★☆☆☆】
【案内・感想】 「さるくら」(表記番地)に駐車場が用意され、「猿倉山森林公園」としてキャンプ場、展望台、ファミリーパークがある[マップコード288 807 340*81]。
東に300m程登って行くと「猿倉社」が祀られ、比高約70mの猿倉山頂上に平成二年度「風の城・風力エネルギー開発利用事業」の風力発電所(休止中)が建てられている(地図)。
その前に「猿倉城跡」「風の城」の石碑が建てられている。頂上から神通川に沿った集落が眼下に一望できる。猿倉山(標高342m)の頂上部に在った山城である。城域など、詳しい事は不明である。
【歴史】 『斐太後風土記』には、「古川高野城主塩屋筑前守秋貞ハ永禄年中(1558~70年)、越中国へ討テ出テ笹津近辺ヲ攻取レリ、新川郡牛柵ノ猿倉山ニ城ヲ構ヘ住居シ、越後ノ上杉勢ト共ニ越中ヲナビキケリ」とある。
塩屋秋貞は元々、飛騨国の人で、越中との交易で財を成し、徐々にその拠点を北上させ、越中へと勢力を伸ばしていた人物である。
一方で上杉謙信の家臣であった長尾景直による元亀二年(1571年)四月二十三日付の書状では、合力してくれていた秋貞が急に退却して猿倉山に城を普請し始めたので彼を本国へ召還して欲しいと記されている。
元亀三年(1572年)五月には謙信の家臣であった鰺坂長実の書状に、井上肥後守なる者が船倉に居て、何度か太田保内へ攻めて来た由が記されている。井上肥後守はその官職名から(恐らく在地の)国人であると思われる。
この後井上肥後守は上杉氏の傘下に下り、天正五年(1577年)の『上杉家家中名字尽』にその名が見えるが、この船倉は同時期に秋貞が拠っていたと思われる猿倉城では無いと思われ、それより北に延喜式内社の論社である姉倉比売神社が在るが、その東にある台地上に城跡が在り、そちらを船倉城に比定する意見もある。
天正四年(1576年)九月の謙信の書状には越中国増山城と共に栂尾城を落したことが記されている。『越登賀三州志』に依れば栂尾城は舟倉城であるとしているが、この辺りの城の記述(越中国津毛城と越中国樫ノ木城等)において『越登賀三州志』には他の城との混同が見られる事から、その信憑性には疑問を挟む余地が在る。
天正年間に郷士の島村丑之助(或いは寺嶋三八郎)が猿倉城に拠って、城主である塩屋秋貞が不在の中、上杉方の津毛城主村田大炊介(村田修理亮秀頼か)と戦い、討ち取られたと云う。
『越登賀三州志』には、秋貞は天正六年(1578年)に佐々成政に下り岩木城に拠ったが、秀頼によって飛騨へ追い返されたと書かれている。
その後、猿倉城は再び越中へ侵入した秋貞が家臣を入れて支配したが、天正十一年(1583年)三月に上杉方の斎藤信利が拠る城生城を攻撃中に上杉景勝の援軍が到着して敗退し、追撃する上杉軍に追いつかれて射殺された。
その後猿倉城は飛騨国国司姉小路自綱の勢力下に入り、天正十三年(1585年)に起こった富山の役で金森長近に落とされたと云う。
また一説には弓庄城に拠っていた土肥氏が一時治めていたとも云う。
猿倉城は天正十三年(1585年)豊臣秀吉の富山の役によって越中国が平定された後には、その役目を終えていたと思われる。