菩提山城 (ぼだいさんじょう) (岩手城) (県の史跡)
最寄地 岐阜県不破郡垂井町岩手619‐2 2015.5.2
菩提山城 (ぼだいさんじょう) (岩手城) (県の史跡)
最寄地 岐阜県不破郡垂井町岩手619‐2 2015.5.2
登城ルート(緑は竹中氏陣屋跡)
竹中氏陣屋跡・櫓門
北側林道からの登り口
土橋・虎口
三の曲輪
出曲輪堀切
出曲輪・土塁
二の曲輪
本曲輪の横堀
本曲輪
菩提山城 本曲輪跡(地図)
【遺構★★★★☆ 比高250m】
【案内・感想】 標高401m(比高約250m)の菩提山頂に築かれた東西約150m南北約300mの西美濃最大級の山城である。
県道257号線に面した禅幢寺(岩手小学校の北約400m)に駐車場があり、石垣のある神社南より西に約1.5㎞の大手登山道がある(地図:獣除けフエンスあり)。
また禅幢寺より北に約1.2㎞行った県道257号線のループした地点に駐車スペースがあり[マップコード242 224 035*04]、西に林道を約300m行った地点に登山口がある(地図)。
約800m行くと禅幢寺からの道に合流し、さらに500m行くと、空堀・土橋を経て大手曲輪に着く。竪堀、切岸が残る。大手曲輪の先に二の曲輪があり、南西に「三の曲輪」、堀切、「出曲輪」がある。
二の曲輪の北に本曲輪があり、説明板が建てられている。本曲輪の西に一段下がって「西の曲輪」「台所曲輪」がある。各曲輪の間の空堀は良く残っている。
禅幢寺には竹中半兵衛重治(1544~1579年)の菩提寺で墓がある。
麓の岩手小学校(表記番地)に竹中氏陣屋跡があり水堀の一部、石垣の一部、櫓門が残っている。櫓門南には、幅5m、長さ20mにわたって濠が遺存しており、櫓門北50mの地には勝手口門がある。
櫓門は南側6m、北側2m程の石垣及びその南面に5m程残存する袖石垣の上に建っている。
その規模は間口6間、奥行3間であり、木造白壁塗りのその姿は、昔の形態をよく残している。
竹中氏陣屋跡は昭和三十一年(1956年)3月28日、岐阜県の史跡に指定された。
【歴史】 『美濃国諸家系図』によると、応永二十年(1413年)岩手弾正左衛門頼重が居城していたとしているが、「菩提山城」の名が見える最も古い記録は、天文十三年(1544年)美濃国守護職・土岐頼芸が岩手四郎に宛てた書状に見える。
永禄元年(1558年)竹中遠江守重元は、岩手氏を攻略して岩手付近一帯や福田、長松(現大垣市)をあわせた6千貫の領主となり、翌永禄二年ここに城を築いた。
重元の子・竹中半兵衛重治は菩提山城を居城にしていたが、永禄七年(1565年)稲葉山城を攻略し、その後織田信長、豊富秀吉に仕えた。
天正七年(1579年)に播磨三木城攻めの陣中で病没した。
天正十六年(1588年)重治の子・重門は菩提山城を下り、岩手に陣屋を構えた。
慶長五年(1600年)関ヶ原の戦で、竹中重門は当初西軍につき、犬山城城主石川貞清に味方した。稲葉貞通、稲葉典通、加藤貞泰、関一政らと犬山城に籠城するが、井伊直政の仲立ちにより東軍に加わり、黒田長政軍として参戦した。
関ヶ原の戦いは竹中氏の領土も戦場となったことなどから、徳川家康より1千石の米を下賜され、また、領土(不破郡岩手六千石)を安堵された。
旗本として徳川将軍家に仕えた。竹中氏は旗本交代寄合として、明治元年(1868年)まで存続した。『垂井町説明板』より。