赤丸城 (あかまるじょう)
最寄地 富山県高岡市福岡町舞谷2033 2014.10.25
赤丸城 (あかまるじょう)
最寄地 富山県高岡市福岡町舞谷2033 2014.10.25
登城ルート
八幡宮・入口標柱
八幡宮・登り口
送電線鉄塔
虎口
主郭跡
説明板
殿様池
赤丸城 主郭跡(地図)
【遺構★★★☆☆ 比高150m】
【案内・感想】 八幡宮(表記番地)入口に入口標柱が建てられ、拝殿左横に登り口がある[マップコード122 861 345*26]。途中の平坦部には北電の送電線鉄塔が建てられ、堀切がある。
虎口を登った城ヶ平山(標高174m比高約150m)の山頂に主郭跡があり、案内板が立てられている。西側には県内では珍しい畝形堅堀が残っている。
また西に一段下がった空堀に、「殿様池」と呼ばれる井戸が残っており、昭和七、八年地元住民により掘り起され、中から滑車や錘、中世の土器等が見つかっている。
削平地は主郭に連なる尾根筋の一帯に広がっており、また山裾を西は今石動(現富山県小矢部市)、東は越中国守山城へと通ずる旧街道、『山根道』が走っていた。高岡市指定史跡となっている。
【歴史】 築城年代は不明だが、天正年間(1573~92年)に五位庄を治めていた国人で越中国浅井城主中山国松の弟、次郎兵衛が拠ったとされる。
尚、長禄年間(1457~60年)に加賀国の半国守護赤松政則が「城ヶ平」に居住したと伝わるが、越中国鴨城の事ではないかとする意見もある。
因みに「鴨城」は赤丸城の南西約1㎞の元取山東、浅井城は北東約600mの清水山に続く尾根尖端にある。
天正年間前半、上杉謙信に攻められた。天正九年(1581年)、中山氏が佐々成政の支配下に入った。
天正十二年(1584年)、この頃前田利家に対する防衛拠点の一つとして改修が施されたと思われる。虎口などにその痕跡が見られる。また成政による前田方の能登末森城攻めに参加した。
天正十三年(1585年)、富山の役で佐々成政が豊臣秀吉に降伏し、中山氏は赤丸城から退去し越前の敦賀に移り住んだ。
廃城年代は不明だが、この時点で赤丸城の存在意義が失われ、間もなく廃城となったと思われる。
以前から赤丸城が本城とされ、北東にある浅井城はその出城であるとされていたが、近年の調査によって浅井城こそが本城であり、赤丸城はその出城であった事が判明した。