岩倉城 (いわくらじょう)
最寄地 愛知県岩倉市下本町城址36 2014.6.14
岩倉城 (いわくらじょう)
最寄地 愛知県岩倉市下本町城址36 2014.6.14
案内板
岩倉城跡碑
織田伊勢守城址碑
【遺構★★☆☆☆】
【案内・感想】 「城跡休憩所」(表記番地)に駐車場があり[マップコード4 675 618*14] 、県道166号線の反対側に「岩倉城跡」、「織田伊勢守城址」(安政七年)の石碑、説明看板が建てられ、不動明王が祀られている(地図)。
『愛知県埋蔵文化財センターの調査資料』によると、岩倉城は本丸北に位置する城跡碑を中心に西は県道166号線「下本町下市場」交差点、東は旧五条川、北はグラシューズ(下本町城址30)、南はコンフォール城址(下本町城址67)付近で囲まれる長方形をしており、二重の水堀で囲まれその中に本丸、二ノ丸が輪郭状に在った。
【歴史】 文明十一年(1479年)頃、「織田伊勢守家」当主の織田敏広によって築城されたといわれる。この城を拠点として「織田伊勢守家」(岩倉織田氏)は尾張上四郡を支配し、尾張守護所が置かれた清洲城を拠点として尾張下四郡を支配した「織田大和守家」(清洲織田氏)に対し、武威を示して当時の尾張では清洲城と並び、重要な城であった。
敏広は文明十三年(1481年)三月、大和守家との和睦が崩れ、清洲方と戦って敗れた後病死した。家督は弟広近の子で養子(甥)の千代夜叉丸(寛広)が継いで、岩倉織田氏として続いた。
天文六年(1537年)頃には寛広の跡を従兄とされる敏広の実子広高が継ぎ、その後、織田大和守家出身とされる織田信安が守護代として台頭した。
弘治二年(1556年)、稲生(いのう)の戦い(「織田弾正忠家」で起きた信長と弟信行の家督争いから発展した戦い)で岩倉城主・織田信安が、弟で末森城主織田信行(信勝)に味方したため、信長と対立した。
その後、永禄元年(1558年)、浮野の戦いで信安の跡を継いだ嫡男・信賢は敗れ岩倉城へ敗走した。
翌永禄二年(1559年)三月、岩倉城に篭城するも、信長に攻撃されて岩倉城は落城した。
その後信賢の行方は不明だが、このときに自刃した、もしくは旧臣の山内一豊に土佐に招かれ、二百石を給したという説があり、山内家墓所の日輪山真如寺(高知市天神町19−32)に信賢の墓がある。