大倉城 (おおくらじょう) (大蔵城)
所在地 長野県長野市豊野町大倉 2019.9.1
大倉城 (おおくらじょう) (大蔵城)
所在地 長野県長野市豊野町大倉 2019.9.1
登城ルート(緑線は車道)
入口(標識後ろに駐車可)
下部水路横の登り口
切岸と堀切
3郭・2郭
2郭西の石積
大堀切
主郭
主郭・落城400年祭の碑
井戸郭・井戸
西側1番目の堀切
2番目の堀切
3番目の堀切
西側4番目の堀切
大倉城 主郭跡(地図)
【遺構★★★★☆ 比高90m】
【感想】 鳥居川とその支流嘉児加川に挟まれた標高456.3mの丘陵先端部に築かれている。
主郭の北西下段に井戸郭、東側に大堀切を挟んで細長い2郭、3郭がある。西側尾根の4条のV字型の堀切がよく残っている。
落城400年祭の石碑や五輪塔があり、婦女子を含め2250余名の死者を出した悲劇の舞台となっている。
【案内】 国道18号線「大倉」交差点より、北に100m余行った左に標識があり、その後ろが広く駐車できる[マップコード54 529 533*28]。
そこから用水路に沿って約200m行くと右への登り口がある。中腹にも用水路があり、そこに説明板が建てられている。(地図)。
そこから登ると、3郭東側尾根に着く。西に3郭、2郭の細長い平坦地があり、2郭西の石積、大堀切、主郭へ続いている。
主郭には祠や落城400年祭の碑、五輪塔が祀られている。主郭の北西下段に井戸郭があり崩れた石積井戸が残されている。その西尾根に4条の堀切が見られる。
【歴史】 鎌倉時代の寛元年間(1243~47年)小笠原信濃守長清が築城し、9男与市長澄が大倉氏を名乗って居住したと伝えられる。
川中島合戦の頃には上杉氏勢力下にあった長沼島津氏が領有し、長沼城の詰城として、また武田氏の北信濃侵攻に対する備えとして機能していた。
合戦後、廃城となったが、天正十年(1582年)武田氏を滅ぼして川中島4郡を支配した織田信長の家臣森長可に対して、上杉景勝と手を結んだ芋川荘の芋川親正を大将とする8千の一揆が蜂起し大倉古城を修築して立て籠もった。
『信長公記』によると、四月七日、激戦の末1250余人が城外で討ち取られ落城し、城内に残っていた婦女子1千余人が切り捨てられるという悲劇の舞台となった。