鳥坂城 (とっさかじょう) (白鳥城・鶏冠城) (国の史跡)
最寄地 新潟県胎内市羽黒2300 2014.7.21
鳥坂城 (とっさかじょう) (白鳥城・鶏冠城) (国の史跡)
最寄地 新潟県胎内市羽黒2300 2014.7.21
登城ルート
白鳥山遠景
居館跡・説明板
本丸・城館遺跡碑・説明板
本丸・展望楼
二の堀
三の堀
五の堀
鳥坂城 本丸跡(地図)
【遺構★★★☆☆ 比高230m】
【案内・感想】 徳岩寺(表記番地)門前の道を東に1㎞ほど行った所に専用駐車場があり、登山案内板がある。
約300m戻った「宮の入コース」入り口に説明板がある[マップコード157 801 115*34](地図)。少し北に行った山麓左側に居館跡がある。
北東に30分ほど登ると尾根に出、沢伝いの白鳥コースと合流する。そこよりさらに約10分登ると、標高298m比高約230mの白鳥山頂上に展望楼が建てられ、「奥山荘城館遺跡(鳥坂城跡)」の碑、説明板が建てられている。
本丸南に「一の堀」、東の電波塔に続く尾根を切る形で「二の堀」~「五の堀」が残り、堀の間に四つの曲輪がある。歩行時間20分で電波塔、その東に30分で標高438.5mの鳥坂山に至る。
昭和五十九年(1984年)10月4日、「奥山荘城館遺跡」として「山麓居館跡」と共に、国の史跡に指定されている。
【歴史】 築城時期ははっきりしないが、平安時代末期の治承四年(1180年)城資永が越後守に任じられ、奥山荘周辺を支配し、有事の要害としたとの説もあるが確実な記録はない。
その名が出てくるのは鎌倉時代初期の建仁元年(1201年)の「建仁の乱」で、『吾妻鏡』建仁元年五月十四日条に「城の小太郎資盛、朝憲を謀り奉らんと欲し、城郭を越後の国鳥坂に構う」とあるのが初見である。
ただ、この時代の「城郭」とは「かいだてを掻き、さかもぎを引いて」というバリケードと矢を射かけるための櫓であり、常設の城ではなかった。
鎌倉時代初め、三浦和田氏の和田義茂が奥山荘の地頭に任命され、建治三年(1277年)に北条、中条、南条に分割され、中条を相続した地頭の子息が中条氏を名乗った。北条は黒川氏を名乗る。
次に出てくる記録は享徳三年(1454年)にこの地の領主中条房資が、子孫に書き残した十一ヶ条の文書であり、そのなかで城資盛の次に城として使用したのは房資の曾祖父・三浦和田茂資(もろすけ)とあり、茂資が下国したのは貞和二年(1346年)であるので、茂資が鳥坂城(鶏冠城)に籠ったのは南北朝時代の「観応の擾乱」の頃となる。
戦国時代、中条氏は越後守護上杉氏に仕えた。応永三十三年(1426年)、中条房資が揚北衆と共に守護代長尾邦景方の三条城主山吉氏を攻撃中、加地氏・新発田氏らは守護代方に寝返り房資を攻撃した。長尾定景・長尾実景が山吉氏の援軍として築地に着陣すると、房資は自らの居館を引き払い河間城に籠った。この時も含めて鳥坂城は舞台に登場しない。
中条房資の文書にはその後、三浦和田茂資の籠城以来、200年を経て享徳二年(1453年)に再興した。それも「この時鶏冠城をこしらえる」と新規に築いたような書き方がしてあり、かつ「子孫においても捨てるべからざるものなり」と書いている。
この城が築かれた鳥坂山は佐竹氏の金砂城同様山岳信仰と結びついており、中世の武士の籠城する場所のひとつの典型にもなっており、古代から中世への城の変遷が語られるときには必ずと言ってよいほど触れられる城である。
中条氏はその後も上杉氏に従い、上杉謙信の時には当主藤資(ふじすけ)が家臣筆頭となった。天文八年(1539年)、色部勝長の平林城を攻めたが、伊達氏の内紛で撤退した。
天正六年(1578年)謙信の急死により勃発した御館の乱で、中条景泰は上杉景勝に与し、上杉景虎方の黒川氏に再び攻撃され落城したが、乱は景勝方の勝利に終わった。
その後、中条景資・景泰と景勝に従うが、景泰は出身の吉江家(景泰は婿養子)と共に守備に当っていた越中国魚津城にて柴田勝家率いる織田軍に攻撃され切腹した。
中条氏は景泰の長子・一黒丸・中条三盛が継いだが、慶長三年(1598年)、景勝の会津移封に従い、廃城となった。