高遠城 (たかとおじょう) (兜山城) (国の史跡・日本100名城30)(日本さくら名所100選)
最寄地 長野県伊那市高遠町東高遠2296 2013.9.1
高遠城 (たかとおじょう) (兜山城) (国の史跡・日本100名城30)(日本さくら名所100選)
最寄地 長野県伊那市高遠町東高遠2296 2013.9.1
大手門跡
伝高遠城大手門
藩校進徳館
桜雲橋・空堀
問屋門・本丸跡・石塁
太鼓櫓
本丸跡
藤原神社
南曲輪
高遠城 本丸跡(地図)
【遺構★★★★☆】
【案内・感想】 国道152号線より県道211号線に入りすぐ左折、高遠閣(表記番地)へ行く途中に駐車場が用意されている[マップコード171 292 685*35]。
道路左側に、石垣の残る大手門跡、その先50mに大手門が移築(昭和二十九年)されている。また、最後の藩主内藤頼直の藩校進徳館が保存されている。
高遠館の前が二の丸、さらに南の空堀に架かる「桜雲橋」を渡ると、「問屋門」が移築(昭和二十三年)された本丸である。
本丸の北に織田の大軍と戦い壮烈な最後を遂げた信玄の五男仁科五郎盛信の霊と藤原鎌足の霊を合祀した藤原神社が建てられている。又太鼓櫓が復元されている。
本丸の南に南曲輪があり、西の崖の下が三の丸で広場兼駐車場になっている。
昭和四十八年(1973年)5月26日、国の史跡に指定された。平成十八年(2006年)4月6日、日本100名城(30番)に選定された。
【歴史】 高遠城は諏訪氏一門の高遠頼継が居城しており、武田氏と同盟関係にある諏訪氏十九代当主の頼重と反目していた。
頼継は天文十年(1541年)武田氏の諏訪攻略を援護し頼重は信玄に滅ぼされるが、諏訪の領有を巡って晴信と頼継は対立し、天文十四年(1545年)四月武田勢は高遠城と藤沢頼親の福与城を攻め伊那地方への進出の拠点とした。
武田晴信は山本勘助や秋山虎繁に命じて改築し、弘治二年(1556年)秋山虎繁が城主となった。
永禄五年(1562年)武田晴信(信玄)の庶子で諏訪氏の娘を母とする四郎勝頼が諏訪氏を継承し同時に高遠城主となり秋山虎繁は飯田城代になった。
元亀二年(1571年)晴信の正嫡であった義信が廃嫡される事件が起こると、勝頼は後継として躑躅ヶ崎館へよびもどされ、高遠城主は信玄実弟の武田信廉となった。尚、勝頼の嫡子信勝の誕生と信玄の父信虎の死去は高遠城でのことだった。
天正元年(1573年)信玄が病没した。長篠の戦いの敗退を契機に領国に動揺を招き、武田勝頼は天正九年(1581年)新府城へ移り、高遠城主を異母弟の仁科盛信とした。
天正十年(1582年)武田勝頼は内通した木曽氏攻めを行い、仁科盛信は大将として出陣し小山田昌成を城代とした。同年織田信長は甲州征伐を開始、長男の織田信忠に5万の兵を与えて高遠城に迫った。
守備隊3千で仁科は信忠の降伏勧告を退けて抗戦するが、守備隊は玉砕、仁科盛信も城を枕に切腹、落城した。織田勢はその余勢で伊那から甲斐へ侵攻し、武田氏を滅ぼした。
信長支配となり高遠城攻めに功のあった、毛利長秀が城主となるが、三ヶ月後に本能寺の変が起こり、高遠城には武田氏の旧臣・木曽義昌が攻め入り占拠した。
以後徳川家康との攻防の舞台となるが結局木曽義昌は家康によって高遠城を追われ、深志城へ撤退した。
天正十三年(1585年)小笠原貞慶が徳川方保科正直の守る高遠城を攻めた。
江戸時代になると、高遠藩の政庁が置かれ、京極氏・保科氏・鳥居氏と城主が替った。
元禄四年(1691年)内藤清政が3万3千石で入城し、以後内藤氏八代が居城し明治維新を迎えた。本丸には御殿、天守代用の辰巳櫓が上がり、桝形虎口の櫓門が建てられ、長大な長塀に囲まれた近世城郭であった。