浜田城 (はまだじょう) (市の史跡)
所在地 三重県四日市市鵜の森1丁目13−6 2019.10.27
浜田城 (はまだじょう) (市の史跡)
所在地 三重県四日市市鵜の森1丁目13−6 2019.10.27
鵜の森公園
西側の公園
東側の冠木門
城址碑
説明板
鵜森神社
鵜森神社裏の土塁
堀跡の池
浜田城跡(地図)
【遺構★★☆☆☆】
【感想】 近鉄名古屋線「近鉄四日市駅」の南西に位置する平城で、鵜森神社には城主・田原忠秀以下4代の霊が祀られている。
神社の周囲に土塁が残っており、同神社南側の池は、かつての浜田城の堀の一部である。
西から南にかけて「鵜の森公園」となり、茶室泗翠庵もあり、市民の憩いの場となっている。
【案内】 近鉄名古屋線「近鉄四日市駅」の南西にある鵜森神社(表記番地)境内や「鵜の森公園」となっている[マップコード38 464 249*83]。
東側に冠木門が建てられ、説明板、城址碑がある。
昭和三十年(1955年)3月30日、四日市市の史跡に指定された。
【歴史】 文明二年(1470年)、この地を治める田原(俵)美作守忠秀によって築かれた。
田原氏は、もともと上野国赤堀庄に住んでいたが、応永年間(1394~1428年)に田原孫太郎景信が伊勢に移り、四日市の赤堀に城を構えたとされる。
景信は、長男の盛宗を羽津に、次男の秀宗を赤堀に、そして三男の忠秀を浜田に配して、これを赤堀三家と称した。
忠秀は、浜田城の西方にあった東海道を海に近い東に移して交通の便を図った。また市場の整備を行い、四日市という地名も忠秀のころに生まれたといわれる。忠秀の後、藤綱、元綱と続いた。
『伊勢軍記』によると、天正三年(1575年)忠秀の2代後の田原元綱の時、織田信長の家臣、滝川一益に攻められ落城した。
元綱は討死したが子の田原重綱は城を脱出し、織田信雄に属していたが、天正十二年(1584年)の小牧・長久手の戦いで討死し、田原家は滅んだとされる。
また『勢州軍記』によると小牧・長久手の戦いの時、滝川雄利が松ヶ島城を開城した後、浜田城に移って籠城したとされる。