五十公野城 (いじみのじょう)
最寄地 新潟県新発田市五十公野4971−3 2014.7.21
五十公野城 (いじみのじょう)
最寄地 新潟県新発田市五十公野4971−3 2014.7.21
新発田東デイサービスセンター
主郭跡・城址碑
城址碑
主郭東側堀切
二の郭
五十公野城 主郭跡(地図)
【遺構★★☆☆☆ 比高40m】
【案内・感想】 県道14号線より東に行った「新発田東デイサービスセンター」(表記番地)[マップコード157 342 114*83] の南に登り口がある(地図)。東中学校の体育館裏の東からも登れ、すぐ主郭に着く。
比高約40mの主郭に土塁があり「五十公野城址」の石碑が建てられている。東に堀切で切られた尾根に2の曲輪がある。
【歴史】 築城時期は不明であるが、五十公野(いじみの)氏により築かれたと言われている。
五十公野氏は、新発田氏の一族で、戦国時代には、後の新発田重家が五十公野治長と称して家を継いでいたが、天正八年(1580年)、兄・新発田長敦の死により新発田氏に戻って家を継いだ。
そのため、新発田重家の妹婿・長沢道如斎が五十公野信宗と改名して、五十公野氏を継いだ。
翌、天正九年(1581年)、義兄の重家が上杉景勝に反旗を翻すとこれに従った。
天正十五年(1587年)、藤田信吉率いる上杉景勝勢に城を囲まれ、籠城中に家老の河瀬次太夫や近習の渋谷氏などが信吉に調略されて寝返るなどした為、十月十三日に落城し、信宗も討ち死にした。