戸屋城 (とやじょう)
所在地 長野県長野市七二会丁2689 2021.4.2
戸屋城 (とやじょう)
所在地 長野県長野市七二会丁2689 2021.4.2
登城ルート(緑線は車道)
北側入口・標識
主郭切岸
主郭・説明板
主郭・土塁・四阿
城跡碑
北側の段
戸屋城跡(地図)
【遺構★★☆☆☆ 比高20m】
【感想】 長野市七二会丁の丘陵に築かれており、萩野城の南東約1.7kmに位置している。
主郭の北側に階段状の段があり切岸が見られ、城跡の雰囲気が漂う。
【案内】 県道401号線より北東に行った表記番地の民家が2郭に建っており南に公園となった主郭がある。北側の市道に駐車スペースがある[マップコード382 474 333*78]。
主郭の土塁に四阿、城跡碑、説明板が建てられており、北から北西にかけて階段状の段が見られる。
【歴史】 伴野庄春日郷(現佐久市春日)の地頭春日氏が「承久の乱」(1221年)の戦功により、この地を与えられ移り住んだ。
初め春日山城を居城としたが、延徳元年(1489年)戸屋城を築き居城とした。
川中島合戦の際、武田信玄が小川の古山城主・大日方氏に宛てて春日氏を誘ってほしいという文書(大日方家文書)を送っており、武田方として奮戦した。
武田氏滅亡後、上杉景勝に属し、慶長三年(1598年)上杉景勝の会津移封により春日氏も米沢へ移り、代官として登用された。
弘化四年(1847年)の善光寺大地震で上下橋詰村は大きな被害を受け、平地であった本丸も起伏のある地形にゆがみ、前方は崩落したと伝えられる。築城当時はもっと広かったという。