高桑城 (たかくわじょう)
最寄地 岐阜県岐阜市柳津町高桑3‐174 2014.11.25 2016.5.8
高桑城 (たかくわじょう)
最寄地 岐阜県岐阜市柳津町高桑3‐174 2014.11.25 2016.5.8
説明板・土盛り
説明板
土盛り
慈恩禅寺観音堂
観音堂石垣
【遺構★★☆☆☆】
【案内・感想】 高桑山慈恩禅寺(表記番地)の観音堂の石垣が、高桑城跡の石垣が使われているとされる。南の「東境川橋」北詰より境川堤防道路を約100m東に行くと、道路横に「高桑城址」説明版が建てられ、河川敷に土盛りが僅かに残っている[マップコード28 340 889*43](地図)。
観音堂の十一面観音坐像は高桑城主の菩提寺・龍雲寺の御本尊として造られ、永禄元年(1558年)雲外和尚が慈恩寺を建立し、御本尊となっている『慈恩寺由緒看板』。
【歴史】 築城時期は諸説あるが、高桑城の城主である高桑氏が、承久三年(1221年)承久の乱の際、朝廷側の武将として参戦している記録があることから、鎌倉時代初期(1190年代)と推測される。土塁で築かれ、周囲は400m(約8アール)。
高桑氏は代々土岐氏に仕え、この高桑城は土岐氏の川手城の支城の役割を担っていた。
明応三年(1494年)、土岐氏の跡継ぎ騒動で起きた船田の乱により落城した。後に再建された。
大永七年(1527年)、斎藤道三に内通していた留守居の武山氏の手により、高桑城は占領され、高桑氏は越前国へ逃亡した。
享禄三年(1530年)には道三が土岐氏を追放し、美濃国の支配を完了し、正式に武山氏の居城となった。
永禄十年(1567年)、織田信長の命を受けた織田信忠(信長の子)が攻め、高桑城は落城し、廃城となった。