小里城 (おりじょう) (県の史跡)
所在地 岐阜県瑞浪市稲津町小里2698‐1 2014.11.23
小里城 (おりじょう) (県の史跡)
所在地 岐阜県瑞浪市稲津町小里2698‐1 2014.11.23
登城ルート
登り口
東砦跡
大手門・石垣
御殿場跡・井戸
大手曲輪
二の郭跡
主郭跡・天守台
天守台・城山神社
小里城 主郭跡(地図)
【遺構★★★★☆ 比高170m】
[案内・感想] 県道20号線の小里川に架かる橋の西「下川折」交差点を西に160mほど行くと「小里城跡駐車場」があり、南に登り口がある[マップコード98 319 120*05](地図)。すぐ西に食事処「なごみ」(表記番地)がある。
南に100m程登ると、大手門下の石垣が右側に残る。更に登ると、大手門石垣が左右に残り、その先に「御殿場跡」の広い曲輪があり、井戸跡が残っている。大手門の内に三つの曲輪があり、本館・書院・長屋・倉庫・厩舎等が建てられ、一千坪の広さがあった。
関ヶ原の合戦後、旧領地を回復した小里氏が居館を構え、20年余使用された後、元和九年に至って宗家に嗣子なく断絶した。
大手門だけ全源山興徳寺の山門に移築され、他は放置、荒廃に帰したと伝えられる。「小里氏御殿場跡」の石碑がある。
大手門の東約200mには「東砦跡」の曲輪があり、北の尾根に堀切が残る。
大手道を500m程登ると「大手曲輪」があり、その上に「二の曲輪」があり石組が残っている。
比高約170m山頂に三角形の桝形虎口がある主郭があり、「小里城址」の石碑文や案内板、四阿が建てられている。天守台石垣は良く残っており、内部に「城山神社」が祀られている。主郭西側から南側には帯曲輪や腰曲輪があり、築城用の割石が散乱している。
昭和三十一年(1956年)6月22日、岐阜県の史跡に指定された。
【発掘調査】 「御殿場跡」は、平成十二年度から十六年度にかけて瑞浪市教育委員会により測量・発掘調査がおこなわれ、十六世紀後半から十七世紀前半にかけての陶磁器片や金属製品が多数出土し、建物礎石や石組み水路等の遺構が確認された。
【歴史】 小里出羽守光忠が天文三年(1534年)に小里川南岸の城山に築いた。それ以前は付近の興徳寺の西に小里新城があり、土岐氏や小里氏の居城だったとされる。
小里氏は土岐元頼あるいは、その子・頼連から始まったとされ、元頼の戦死後は諸国を放浪したが、越前国朝倉氏の後援を得て土岐、恵那両郡の旧領・約3600石余を取戻した。ただし、築城者の光忠が土岐氏の系譜を引くかは不明とされる。
光忠は織田信長に従い、その子・光明は天正二年(1574年)に美濃国内の武田家の岩村城を攻める拠点として小里城を改修し、池田恒興が城の御番手となった。なお翌年岩村城が落城するとこの工事は中止された。
光明は織田信孝に仕えたが、本能寺の変の後、豊富秀吉に敗れて信孝が自害した後は、光明は小里城を離れ和田姓を名乗って徳川家康に仕えた。
天正十九年(1591年)に旗本・和田光明として相模国東郡岡田郷(現・神奈川県寒川町)に領地を当てがわれている。
その後、関ヶ原の戦いの功によって光明の子・光親は慶長五年(1600年)に土岐、恵那郡の旧領を再び与えられた。
しかし光親の子・光重は嗣子がないまま元和九年(1623年)に亡くなったため、小里氏は断絶した。