韮山城 (にらやまじょう) (龍城)
最寄地 静岡県伊豆の国市韮山韮山2−4 2014.6.12
韮山城 (にらやまじょう) (龍城)
最寄地 静岡県伊豆の国市韮山韮山2−4 2014.6.12
登城ルート
登り口・道標
三の丸跡・韮山高校グランド
熊野神社
二の丸跡・土塁
土橋・堀切
本丸跡・土塁
南西側の曲輪・空堀
韮山城 本丸跡(地図)
【遺構★★★☆☆ 比高30m】
【案内・感想】 「韮山郷土史料館」(表記番地)の西側、「城池」堤防の西側に駐車場が用意されている[マップコード116 490 156*01]。右手の登り口に標識、説明看板が建てられている(地図)。
階段を登ると北に三の丸跡にある韮山高校グランドがある。南に登ると熊野神社があり、堀切で隔てられた二の丸跡があり、土塁が東側に残っている。
堀切・土橋を渡り虎口を登ると、比高約30mの「龍城山」の頂上・本丸跡で南に土塁があり、説明看板が建てられている。
西に韮山の町や水田、韮山高校校舎が望める。更に南には「土手和田砦」、「和田島砦」、「天ヶ岳砦」、「江川砦」があり曲輪や土塁が残っている。平時の居館跡は御座敷の字名が残り県立韮山高校校舎が建っている。
【歴史】 築城年ははっきりしないが『北条五代記』によると文明年間(1469~87年)に堀越公方・足利政知の家臣、外山豊前守が築城したのが始まりとされている。
初めはあまり大規模なものではなく、明応四年(1495年)に堀越公方・足利茶々丸を攻め追放し、滅ぼした伊勢盛時(北条早雲)によって後北条氏の領有となり、同年から早雲によって後北条氏の本拠地として本格的に造営された。
早雲はここを拠点に伊豆の各拠点の支配を進め、後に相模に領土を広げた後も小田原城に移ることなく、永正十六年(1519年)に没するまでここを居城とした。
その後も小田原城を中心に関東を支配する後北条氏の重要拠点の一つとなり、永禄末年には時の当主・北条氏康の四男・氏規が城主として入り、伊豆支配の中心地とした。
しかし後北条氏は天正十八年(1590年)の小田原征伐では、ほぼ天下を統一していた豊臣秀吉の大規模な攻勢を受けた。 韮山城にも豊臣秀次の軍勢が迫ったために氏規は籠城して戦い、北条方は総勢約3600人、豊臣方は総勢約4万4千人と伝えられる大きな戦力差のなかで約百日間も持ちこたえたが、ついに開城した。
その後、関東に入った徳川家康の家臣内藤信成が居城としていたが 慶長六年(1601年)に駿府に転封となり廃城となった。
現在韮山城は、その敷地のほとんどがかつての韮山代官・江川太郎左衛門の子孫である江川家の持ち物となっている。
南方約2㎞には、江川英龍により計画され・子の英敏により築造され、安政四年(1857年)に完成した韮山反射炉(地図:伊豆の国市中字鳴滝入268)がある。