長沼城 (ながぬまじょう)
最寄地 長野県長野市穂保167 2014.7.16
長沼城 (ながぬまじょう)
最寄地 長野県長野市穂保167 2014.7.16
貞心寺
復元図
三の丸跡
二の丸跡
内堀跡
本丸跡標識
中堀跡
大手門跡
長沼城 本丸跡(地図)
【遺構★☆☆☆☆】
【案内・感想】 貞心寺(表記番地)より約500m北の守田神社(長野市穂保951)にかけて三重の堀が廻らされた城域があった。
復元図によると、東は千曲川河川敷に堀川があり、西に三重の堀があり、外堀は県道368号線の西より現在の堤防東の東西約400m、南北約500mの規模に巡らされていた。
県道に沿って侍屋敷があり、守田神社を含む広い範囲が三の丸跡(地図)であった。
中堀は「おんま(お馬)通り」に沿い東西約180m、南北230m(現在林檎畑)の規模で、その中に二の丸跡(地図)があり、北、西、南に馬出・三日月掘があった。
内堀の中に約80m四方の本丸があったが、現在、堤防道路に登るアクセス道付近の千曲川堤防下になっている。
大手門は北の長沼公民館(長野市穂保941)南付近にあった。遺構は消滅しているが、案内標識が数多く設置されている。
【歴史】 築城の時期は明確ではないが、室町時代に太田庄の地頭として移住し勢力を伸ばしてきた島津氏の一族信濃島津氏が現在の長野市穂保に最初に築いたといわれている。築城時は堀と土塁で囲んだ館であった。
武田信玄の北信濃侵攻に伴い、島津氏は北の大倉城に移った。この後、弘治元年(1555年)、永禄四年(1561年)、永禄十一年(1568年)の三回にわたって改修、修復が行われ、武田信玄の家臣・馬場信春によって本格的な城郭として改築された。
武田氏の支配下では原与左衛門、市川梅印らが守将として配置された。川中島の戦いから七年後、武田軍は本拠地を海津城から長沼城に移して飯山城など北信濃の攻略の前線基地にしたとされる。
江戸時代に描かれた「長沼古城の図」は平城で東方を千曲川で防御し、西南に武家屋敷、北方に大手門と冠木門で固める小規模ながら近世城郭に近い総構えであった。
その後武田氏を滅ぼした織田方の森長可(ながよし)が海津城に入り、その支配下の城となった。
だが僅か2~3カ月後に織田信長が本能寺の変で倒れたことで天正壬午の乱となって、芋川氏など土豪一揆に攻撃されて撤退し越後から侵攻した上杉景勝の支配する城となり島津忠直が入城した。
慶長三年(1598年)には上杉氏の会津転封に伴って島津忠直は陸奥長沼城に移り、新たに川中島藩13万6千5百石の領主となって海津城に入った森忠政の配下である各務(かがみ)元正・元峯親子の居城となった。
江戸時代に入った慶長八年(1603年)には森氏の転封によって、長沼藩1万8千石の佐久間勝之の居城となった。
その後、勝友・勝豊と続き、元禄元年(1688年)に4代佐久間勝親が幕命に従わなかったとして改易された後、廃城となった。