城端城 (じょうはなじょう)
所在地 富山県南砺市城端405 2014.10.24
城端城 (じょうはなじょう)
所在地 富山県南砺市城端405 2014.10.24
善徳寺山門
太鼓堂
善徳寺北西側
萬福寺山門
【遺構★☆☆☆☆】
【案内・感想】 国道304号線「善徳寺前」交差点より西へ50m行った名刹善徳寺(表記番地)境内とされているが[マップコード122 048 467*57](地図) 、正確な跡地は未だ特定されていない。
長年、現在善徳寺(県指定文化財)が建つ場所に築かれていたと云われてきたが、善徳寺の周囲では城端城時代のものと断定出来る遺物の類は発見されておらず、『越登賀三州志』には城端の町の入り口に出丸が在って町の南に城が在ったと記されており、『三州測量図籍』には善徳寺の南東にあたる場所に城が在ったと図示されている。
また善徳寺が建った後も城主が存在していたと思われる事から善徳寺と城端城が並存していた時期が在ると考えられ、城端城の城域をそのまま善徳寺が継承して建てられたとは考えにくい。
善徳寺の大門として使用された後、享和元年(1801年)萬福寺(砺波市苗加781)の山門として移築されている。冠木の散し八双裏の墨書に「城主荒木六兵衛大手之門」とある。(昭和四十年一月一日、県指定文化財)。
善徳寺の太鼓堂は城端城の遺構であるとする言い伝えが在る。
【歴史】 築城年代は不明。この辺りを治めていた土豪、荒木氏が拠っていた。
荒木氏については史料に乏しいが、永禄二年(1559年)か元亀三年(1572年)に城端城城主だった荒木大膳が現在の富山県南砺市福光(旧富山県西砺波郡福光町山本)に在った善徳寺に城の敷地、城門を寄進し、善徳寺を招致した(『寺伝』)。善徳寺は瑞泉寺や勝興寺と共に越中一向一揆の中心として活躍した寺であり、大膳は一向一揆勢力に属していたと思われる。
のち斎藤九右衛門なる者が拠り、佐々成政が越中国を平定した後は家臣の河内才右衛門を入れたと云う。
天正十三年(1585年)成政が豊臣秀吉に降った以降、廃城となったと考えられる。