竹ヶ鼻城 (たけがはなじょう)
所在地 岐阜県羽島市竹鼻町2624‐1 2014.11.25
竹ヶ鼻城 (たけがはなじょう)
所在地 岐阜県羽島市竹鼻町2624‐1 2014.11.25
本丸碑・説明板
資料館・本丸碑
お城地蔵大菩薩
竹ヶ鼻一夜堤跡碑
【遺構★☆☆☆☆】
【案内・感想】 歴史民俗資料館(表記番地)敷地に「竹ヶ鼻城本丸趾」の石碑と案内板が建てられている[マップコード28 249 438*87] (地図)。
斜向かいに昭和二十五年に建てられた「お城地蔵大菩薩」が祀られている。また北方約700mに、天正十二年の秀吉の水攻めに使われた竹ヶ鼻一夜堤跡の石碑が建てられている(県道151号線「竹鼻町今町」交差点西付近:地図) 。
城跡の位置は竹鼻町1507番地(昭和六年県指定)、戦後は竹鼻町丸の内3丁目48番地の1(昭和三十年県指定)となったが、これらは口承や地形、文献から推定したもので、石垣などの確証はない。
近年、城町開拓の文書資料からこの辺りが本丸跡とみる新説が出ている『羽島市教育委員会現地案内板』より。
【歴史】 応仁年間に竹腰伊豆守尚隆によって築城したとある『美濃古城史』。その後は土岐氏や斎藤氏に仕えた長井氏が入り、更に織田氏に支配権が移った。
天正九年(1581年)、織田信雄配下の城主不破源六は、一時荒廃していた城を拡大し、鬼門の守護神として八剣神社を遷座し菩提所本覚寺を創立した。
天正十二年(1584年)、不破広綱(源六)は小牧・長久手の戦いの際に、豊富秀吉の水攻めに遭い一ヶ月後に開城(竹ヶ鼻城の水攻め)した。不破源六は落ちのび、秀吉の配下の一柳直末が入城した。
直末が大垣城主となると、池田恒興の配下の伊木忠次、次に森寺清右衛門が入城した。
その次の織田秀信(岐阜城主)の旗下の杉浦五左衛門重勝が城主の時、慶長五年八月二十二日(1600年9月29日)、関ヶ原の戦いの前哨戦として福島正則によって攻囲され、二の丸、三の丸に詰めていた援軍の毛利広盛らが知己であった福島に降伏してしまったため落城、杉浦重勝は自害し、城は炎上した(竹ヶ鼻城の戦い)。その後、竹ヶ鼻城は廃城となった。