蓮沼城 (はすぬまじょう)
最寄地 富山県小矢部市蓮沼148 2014.10.25
蓮沼城 (はすぬまじょう)
最寄地 富山県小矢部市蓮沼148 2014.10.25
城址碑・説明板
説明板
城址碑
【遺構★☆☆☆☆】
【案内・感想】 光蓮寺(表記番地)東約100mに在り、小高い石垣の上に城址碑と説明板が建てられている[マップコード122 553 188*83](地図)。往時の面影は無い。
東西26間(約47m)、南北36間(約65m)、堀の幅は5間であったと伝えられている。出城として柴田屋館が在る。椎名康胤の家臣柴田久光が拠り、天正年間に木舟城主石黒成綱に攻め滅ぼされたとされる。
【歴史】 室町時代の永享年間(1429~41年)前半、越中国守護畠山氏の守護代として砺波郡を支配していた遊佐氏(遊佐徳盛か?)が築き、居城とした。
文明年間(1469~87年)、連歌師の宗祇が越後に赴く途中に蓮沼城主遊佐長滋の館へ度々立ち寄り、千句の連歌を興行したと伝えられている。
なお、宗祇が著した『新撰菟玖波集』に長滋の詠んだ歌「舟つなぎおく水の静けさ旅人の静まる月に鐘鳴りて」が載っている。
永正・大永年間(1504~28年)、城主遊佐新右衛門慶親が埴生護国八幡宮に108段の石段を寄進しているがこの後、慶親は加賀一向一揆勢力の圧迫に抗しきれず越後に亡命した。
その後は一向一揆勢力の支配下に置かれたと云われる。また、一向一揆と敵対関係にあった木舟城主石黒氏が一時期支配下に置いていたとも云う。
永禄十二年(1569年)以降、上杉謙信により松倉城を追われ礪波郡の一向一揆勢力に合流していた椎名康胤が拠っていた。
天正四年(1576年)九月頃、謙信に攻められて落城し、康胤は敢え無く敗死した(『越登賀三州志』)と云うが、康胤終焉の地については諸説ある。
天正十三年(1585年)、越中国を治めていた佐々成政は豊臣秀吉との直接対決が不可避であることを悟り、それまでの加賀前田領への侵攻策から自領へ招き入れての防衛策へと方針を転換した。
蓮沼城はその重要拠点となり近隣から多くの兵糧が集められた。これを重くみた前田利家は電撃的に蓮沼城を急襲して城下共々焼き討ちを敢行し、佐々軍の救援が着くまでに素早く撤退した『越登賀三州志』『末森記』。
蓮沼には当時北陸道が通っており、遊佐氏が拠った時期には砺波郡の行政の中心地であった事もあって大いに栄えていた。年間を通じて水量の変化が少なく水運に最適な小矢部川の恩恵も受け、その勢いたるや「蓮沼三千軒」と称される程であったが、全ては灰燼に帰してしまった。
城下の機能はその翌年に築かれた今石動城へと移行し、それに伴い北陸道のルートも変更されて蓮沼の繁栄は終焉を迎えた。