一乗寺城 (いちじょうじじょう)
所在地 富山県小矢部市八講田 2014.10.25
一乗寺城 (いちじょうじじょう)
所在地 富山県小矢部市八講田 2014.10.25
登城ルート(緑線は車道)
説明板
一乗寺城址之碑
三の丸西の堀切
三の丸・土塁
三の丸二の丸間の空堀
二の丸・本丸切岸
本丸跡
一乗寺城 本丸跡(地図)
【遺構★★★★☆】
【案内・感想】 「県道214号線」と「くりから林道」の十字路(石川県側に位置)を南に林道を約600m行くと「一乗寺城址之碑」の石碑のある駐車スペースに着く[マップコード 122 486 105*13 ](地図)。
東に少し行くと説明板が建てられ、空堀があり、高い三の丸切岸が見える。二の丸と三の丸の間を登ると虎口がある。
空堀、土塁がよく残り、東に一段高く標高279m比高約20mの枡山頂上に本丸跡がある。本丸より東に降ると腰曲輪がある。本丸跡から北東に小矢部石動の市街が望める。
昭和五十二年(1977年)9月12日、小矢部市の史跡に指定された。
【歴史】 名前の由来は不明である。南北朝時代の正平年間(南朝暦・1346~70年)、南朝方の有力者だった越中国守護桃井直常が居城とした庄ノ城の支城として重臣丹羽吉左衛門により築かれ、直常の子である松根城主桃井直和の管理下に置かれた。
康安二年(北朝暦・1362年)一月二十三日、征夷大将軍足利義詮が能登国の地頭、御家人らに桃井直常追討を下知し、能登国の守護であった北朝方の吉見氏頼と交戦状態となり、結果桃井勢は越中を離れ全国を転戦する事となった。
応安元年(北朝暦・1368年)八月には対桃井強硬派の斯波義将が越中国守護に任じられた。ほぼ同時に桃井親子も越中へ戻っており、早速桃井氏討伐に着手した。
応安二年(1369年)六月、桃井直和が加賀国守護富樫昌家の居城である富樫城を攻めるも吉見氏の援軍により撤退し、一乗寺城に篭った。
同年九月十七日、吉見頼顕の軍勢によって一乗寺城は落城した。直和は越中国千代ヶ様城へ退却した。直和はこの翌年、義将の軍勢と交戦し敗死している。
天正十二年(1584年)、佐々成政が前田利家に対する備えとして家臣杉山小助を配置して越中国源氏ヶ峰城、加賀国松根城、加賀国荒山城 (金沢市荒山)などと共に大改修を施した。
同年七月、成政は一乗寺城から「田近道」を通って加賀国朝日山城へと攻め込むも撃退され、九月の末森城の戦いの後には、逆に朝日山城に拠っていた利家の重臣・村井長頼に攻められ落城した。
村井長頼は後に、同じく攻略した加賀国松根城を本城とし一乗寺城を支城として管理したが、前田家が加賀国と越中国を治めてしまっている為に軍事的価値が無く、さほど時を置かずして廃城となったと思われる。