宗守城 (むねもりじょう) (宗守館)
最寄地 富山県南砺市宗守438 2014.10.24
宗守城 (むねもりじょう) (宗守館)
最寄地 富山県南砺市宗守438 2014.10.24
神明社・北側土塁・城址碑
説明板
神明社
南東側土塁
北東側土塁
【遺構★★★☆☆】
【案内・感想】 宗守公民館(表記番地)横に「山田郷総鎮守・神明社」の石碑があり、東100mに、周囲を土塁で囲われた跡地に神明社が建てられている[マップコード122 199 063*27](地図)。
東西約35m、南北約50mの敷地北側に「宗守城址」の石碑、案内板が建てられている。堀が在ったと思われる場所は水田に変わっており確認出来ない。
【歴史】 永正年間(1504~21年)初頭、関東管領上杉顕定の弟である越後国守護上杉九郎房能(ふさよし)の家臣、小林壱岐守則行が築城して山田庄を治めた。城下には大工町、鍛治町、紺屋町、木挽町と言った地名が残っている。
永正四年(1507年)八月七日、房能(房義)が越後国守護代長尾為景(謙信の父)に攻められ天水越で敗れ自刃した(天水越の合戦)。
それに伴い城主(則行か?)が越後国へ帰国し、宗守城は放棄されたという。その後、藤井嘉兵衛なる者が拠って、上杉謙信に攻められ戦死したという話もある。