山家城 (やまべじょう) (中入城) (県の史跡)
最寄地 長野県松本市入山辺4526 2014.6.17
山家城 (やまべじょう) (中入城) (県の史跡)
最寄地 長野県松本市入山辺4526 2014.6.17
登城ルート
登り口
本丸入口堀切
東側石垣
東側石垣
主郭・土塁・秋葉神社
土塁・秋葉神社
東側の堀切
山家城 本丸跡(地図)
【遺構★★★☆☆ 比高170m】
【案内・感想】 県道67号線より北に行った徳運寺(表記番地)より東に約300m行き路肩に駐車した[マップコード75 801 095*86]。 葡萄畑の間を250mほど登ると登山口(地図)に着く。
鳥獣除けフェンス扉を開け閉めて、登ってゆくと、細長い曲輪に着く。東側に堀切があり、更に登ると、小曲輪があり一段髙く本丸がある。
比高170mの本丸跡は東西約20m南北約22mで周囲に土塁、石垣が積まれ、秋葉神社が祀られている。背後に深い掘切がある。
昭和五十五年(1980年)「小笠原氏城跡」(林大城・林小城・埴原城)に桐原城と共に追加指定されている。
【歴史】 鎌倉時代、諏訪氏の一族・神為頼の子孫が山家氏を名乗り、元弘元年(1331年)徳雲寺(入山辺4526)を創建し、山家郷の地頭を務め、時期ははっきりしないがこの地に居城を築いたと云われている。
文明十二年(1480年)に小笠原氏に攻められ、諏訪氏の流れをくむ山家氏は滅亡した。
その後、永正二年(1505年)頃小笠原氏の系統である折野昌治が播州より入城し山家氏を名乗り、山家昌治(薩摩守)がこの地を治めた。
始めは主家の小笠原長時に従っていたが、天文十七年(1548年)甲斐国の武田氏の調略に乗り、小笠原氏を裏切って武田氏に従った。以降は武田信玄・勝頼の二代に仕えた。
天正十年(1582年)の武田氏滅亡後、山家氏の動向ははっきりしないが、徳川家康の配下となった小笠原貞慶が、松本平の旧領を回復した後、攻められ没落したものと考えられる。