津城 (つじょう) (安濃津城)(あのつじょう) (県の史跡)
所在地 三重県津市丸之内32-28 2012.5.10 2013.9.3
津城 (つじょう) (安濃津城)(あのつじょう) (県の史跡)
所在地 三重県津市丸之内32-28 2012.5.10 2013.9.3
内堀・本丸石垣
三重隅櫓
三重隅櫓
天守台石垣
藤堂高虎騎馬銅像
津城本丸跡(地図)
【遺構★★★★☆】
【案内・感想】 国道23号線「三重会館前」交差点より西に100m、左折するとすぐ、津城北東隅道路向いに「お城東駐車場」(表記番地:有料30分100円)がある[マップコード80 766 702*00] 。
西に、巾15~25mの内堀が残っている。堀は回の字形の二重であったが、外堀は埋められている。
現在本丸跡は「お城公園」となり庭園が造られている。又天守台の石垣や藤堂高虎の騎馬銅像があり、東端に三重隅櫓が復元(昭和三十三年)されている。現在城跡には藩校有造館の正門の入徳門が移築現存している。
平成十七年(2005年)3月17日、県の史跡に指定された。
【歴史】 戦国時代の永禄年間(1558~70年)に、長野氏の一族の細野藤敦が安濃・岩田の両河川の三角州に小規模な安濃津城を構えたことに始まる。
永禄十一年(1568年)織田信長の伊勢侵攻により織田掃部頭が入城し、翌年には織田信包(のぶかね)が入城した。信包は城郭を拡充し、石垣を普請し堀を巡らせて、本丸・二の丸・三の丸を整備した。
天正五年(1577年)には五重天守と小天守を落成した。文禄三年(1594年)信包は秀吉の命で丹波国柏原へ移り、翌年、豊臣氏家臣の富田一白が五万石で入城した。
富田一白の子・信高は慶長五年(1600年)の関ヶ原の戦いで東軍につき、西軍方の毛利秀元・長宗我部盛親軍3万の軍勢に攻められた。信高軍は1,300人と劣勢で、苦戦を強いられ奮戦の末、木食上人の調停により開城となった。しかし、この奮戦により戦後、江戸幕府より2万石の加増を受けた(安濃津の戦い)。
慶長十三年(1608年)富田信高は伊予宇和島藩(宇和島城)に移封となり、代わって伊予今治藩より藤堂高虎が伊勢・伊賀22万石をもって入城した。
高虎は城の大改修に着手し輪郭式の城郭に変貌させ、城下町を整備した。以後、明治維新まで藤堂氏の居城となった。 大阪の役の功により二度にわたり5万石ずつ加増を受け、藤堂氏は32万3千石の大大名となった。
なお、天守は関ヶ原の戦いで焼失し再建されなかったとされる。津は江戸期を通じて伊勢神宮参拝の宿場町として栄え「伊勢は津でもつ津は伊勢でもつ、尾張名古屋は城でもつ」と伊勢音頭に謡われた。
明治四年(1871年)廃藩置県により廃城となり、建造物は破却された。