犬居城 (いぬいじょう) (鐘懸城・鞍掛城) (県の史跡)
最寄地 静岡県浜松市天竜区春野町堀之内216 2014.7.2
犬居城 (いぬいじょう) (鐘懸城・鞍掛城) (県の史跡)
最寄地 静岡県浜松市天竜区春野町堀之内216 2014.7.2
登城ルート(緑線は車道)
登り口
東曲輪
本曲輪・標柱
物見曲輪・望楼
役の行者石像
犬居城 本曲輪跡(地図)
【遺構★★★☆☆ 比高100m】
【案内・感想】 標高250mの行者山に築かれている。熱田神社(表記番地)の西を北に国道362号線に架かる橋を渡って約200m行くと、城跡登り口に着き、2台の駐車スペースがある[マップコード386 137 703*48] (地図)。
そこより西に500mほど登ってゆく(約250m地点で東に大きく折れる)と、堀切のある東曲輪がある。
西に二の曲輪、一段高く細長い本曲輪があり下段に帯曲輪がある。比高約100mの最高所の物見曲輪にコンクリート製の望楼(昭和三十六年造)が建てられ、「役の行者」(宝暦二年・1752年)の石像が安置されている。その西は深い堀切で隔てられている。堀切、虎口、空堀が見られる。 県の史跡となっている。
【歴史】 犬居城主・天野政景は承久の乱(1221年)で活躍し、曾孫天野経顕が山香荘に地頭として入部して以来地歩を固め、鎌倉時代には幕府の御家人として活躍した。
南北朝時代の元弘三年(1333年)天野周防守経顕は子の経政と共に後醍醐天皇の論旨を奉じて一族を率い、新田義貞の鎌倉攻めに馳せ参じ、軍功により本領安堵され、井伊・奥山等を得て遠州の南朝方の勢力を誇った。
しかし、新政権への不満から足利尊氏が後醍醐天皇に反旗を翻すと、同様に不満を持っていた経顕は尊氏に従って行動した。 一方、経顕の弟景光の子・政貞は南朝方の新田義貞に従い、義貞・義宗・顕政と新田氏三代に属して南朝に忠節を尽くした。また、経顕の嫡孫景隆(経政の子)も磐田郡の秋葉山に城を構えて南朝の宗良(むねなが)親王を守った。しかし経政・景隆は翻身して北朝方となり、遠江守・下野守に任ぜられている。その孫となる景政が遠江国犬居の地頭となり、犬居城を築いて居城とし、のちにつながる犬居天野氏の祖となった。
天野氏は南北朝の中期には一族が南朝・北朝に分裂して争うようになった。犬居の天野氏の本宗は今川氏に属して北朝に味方するが、その分家・久頭郷城主天野氏は南朝に属した。秋葉城主の景顕は北朝方今川範国に属するが、その子遠幹(民部少輔)と孫の遠貞はともに南朝方になった。
この分裂抗争は戦国時代も継続した。そうした中、秋葉城主景顕の曾孫景貞の系統から天文年間(1532~55年)に天野安芸守虎景(小四郎)が今川義元に属した。今川義元の忠実な家臣として北遠の要と位置づけられていた。
その後藤秀(宮内右衛門)が相続。一方、犬居の本領三ヶ村は嫡流の天野景泰(安芸守)が相続し、義元の三河・尾張遠征軍の将として派遣され武功を賞されたが、永禄六年(1563年)に今川氏に背いて所領を没収され、一族の藤秀が犬居城に配された。
藤秀の子で、当時の犬居城主だった天野景貴(宮内左衛門)は、遠江を手中に収めようとする徳川家康に従っていたが、武田信玄の領国美濃と境を接していたこともあり信玄の巧みな勧降工作で寝返り武田氏と結託する密約をし、景貫の根回しにより、多くの遠江北辺の郷士が信玄に従属することになった。
天正二年(1574年)四月、激怒した徳川家康に攻められたが大雨に救われ凌いだ。
天正四年(1576年)再び家康の攻撃を受け、天野景貫は甲州に逃れ、再び北遠の地を踏むことはなかった。落城後廃城となった。