下切館 (しもぎりかん) (岡田将監屋敷)
所在地 岐阜県可児市下切535‐2 2014.12.13
下切館 (しもぎりかん) (岡田将監屋敷)
所在地 岐阜県可児市下切535‐2 2014.12.13
テニスクラブ・標柱
屋敷跡標柱・石垣
【遺構★★☆☆☆】
【案内・感想】 現在は城山ロイヤルテニスクラブ(表記番地)の敷地になっている[マップコード70 262 511*05]。
テニスコートの北の高台に石垣があり、「岡田将監屋敷跡」の石碑が建てられている(地図)。可児市の史跡に指定されている。
【歴史】 尾張出身で美濃国の奉行であった、岡田善同(よしあつ) が居館していた。子の善政とともに岡田将監(しょうげん) を名乗っている。
善同は永禄元年(1558年)尾張国で生まれた。佐々成政に仕官、肥後国人一揆平定戦などに活躍したが、天正十三年(1585年)佐々家の改易により浪人し、後に徳川家康に仕えた。
慶長五年(1600年)の関ヶ原の戦いでは東軍の加藤清正の軍で戦功をあげた。この功績により、5千石の旗本となる。また美濃国幕府領の代官となり、可児郡下切に下切館を構えた。
徳川家康の信任が厚く、名古屋城築城普請奉行、大阪の陣の陣奉行、山田奉行として伊勢神宮造営にも尽力した。
慶長十八年(1613年)から寛永六年(1629年)には美濃国代官(美濃郡代)となり、治水奉行として尾張国の御囲堤築堤の際、美濃国側の工事を指揮した。
農民保護政策や治水事業に力を入れ、美濃国の独自の国役普請制度である「濃州国法」の原型をつくる。猿尾堤を発案した人物という(子の岡田善政の説もある)。
寛永八年(1631年)には5千石の旗本となり、揖斐城の麓に揖斐陣屋を築いた。同年五月二十九日没した。