揖斐城 (いびじょう)
最寄地 岐阜県揖斐郡揖斐川町三輪2924‐2‐2 2014.11.27
揖斐城 (いびじょう)
最寄地 岐阜県揖斐郡揖斐川町三輪2924‐2‐2 2014.11.27
登城ルート
登り口
井戸
南の曲輪
本丸跡
本丸跡・城阯碑
二ノ丸跡
大手門跡
三の丸跡
出丸跡
北の丸跡
揖斐城 本丸跡(地図)
【遺構★★★★☆ 比高130m】
【感想・感想】 比高130mの城台山に、井戸、桝形虎口などよく整備された連郭式の遺跡が残っている。南に揖斐川に沿った揖斐川町の町並が望める。
【案内】 国道303号線「上新町」交差点より「揖斐小学校」横を通って登った城台山公園に駐車場がある[マップコード242 564 664*24] (地図)。公園広場の北側に三基の句碑がある。右の長田等の「一枚を植えて深田を這い上る」は迫力がある。
公園北より西に登って、「一心寺」(表記番地)よりの遊歩道を北に行くと、四阿が建てられている。
そこより登って、南の曲輪の下を右折してゆくと井戸がある。戻って登ると堀切があり、南の曲輪があり、「一心寺歴代住職墓碑跡」の石碑が建てられている。
石積みが残り、虎口を登ると標高223m比高約130mの城台山頂上に本丸跡がある。本丸跡は広く案内板、「揖斐城阯」の石碑が建てられている。本丸の北東に桝形虎口があり、その下に曲輪、二の丸、二の丸門跡があり東に曲輪、大手門跡、三の丸があり、その東に一段高く出丸がある。
出丸の北西は切岸がある。出丸の北に堀切、北の丸、堀切、搦め手曲輪、堀切があり、搦め手道となり大光寺に至る。
昭和四年(1929年)4月揖斐川町の史跡に指定された。
【歴史】 『土岐累代記』によれば土岐頼康が、また『新撰美濃志』によればその弟の土岐頼雄が康永二年(1343年)に築城したという。いずれにしても頼雄が城主となって揖斐氏を名乗り、子孫が代々後を継いだ。
頼雄直系の基信は土岐政房の子・土岐光親を養子としたが、天文十六年(1547年)の斎藤道三による攻撃で落城した。
その後は揖斐氏の家臣・堀池氏が居城としたが、織田信長の美濃国侵攻に伴い、稲葉良通によって城は陥落した。天正年間の半ばには良通の子・稲葉貞通が城主となった。後に破却された。
慶長五年(1600年)、関ヶ原の戦いで功績をあげた西尾光教が、曽根城から揖斐に移った際、旧揖斐城の麓に新たな揖斐城を築き、揖斐半三万石をおこした。
元和九年(1623年)、揖斐藩2代藩主西尾嘉教が嗣子無く亡くなったため揖斐藩は取り潰され、幕府領となった。
寛永八年(1631年)、旗本岡田善同(岡田将監)5千3百石の領地となり、西尾光教が築いた揖斐城を改修し、揖斐陣屋とした。
揖斐陣屋は明治元年(1868年)まで存続した。現在その跡地は町立揖斐小学校(斐川町三輪1332−2)と民有地となり、石碑のみが残っている。