織田信長本陣 (おだのぶながほんじん)
所在地 愛知県新城市牛倉城山 2016.4.23
織田信長本陣 (おだのぶながほんじん)
所在地 愛知県新城市牛倉城山 2016.4.23
本陣跡入口
虎口
郭・神社
信長の歌碑
織田信長本陣跡(地図)
【遺構★★☆☆☆】
【案内・感想】 新東名高速道路「長篠設楽原パーキングエリア下り」の東に隣接している茶臼山頂に「織田信長本陣跡」がある。
県道21号線よりもパーキングエリア一般駐車場を利用できる[マップコード301 001 527*75] 。
途中まで階段があり、頂上平坦地に神社が祀られ、織田信長の歌碑「きつねなく 声もうれしくきこゆなり 松風清き 茶臼山かね」と刻まれた石碑が建てられている。
茶臼山の東側に戦場となった連吾川がある。
【歴史】 天正三年(1575年)五月、長篠・設楽原の戦いに臨んだ織田信長は、設楽原の決戦を控えて上平井の極楽寺で軍議を開き、武田軍の騎馬隊攻略の作戦を練った。
信長自身は、茶臼山に進撃し、本陣を置いて指揮をとった。このすぐ北側には、側近羽柴秀吉を従え、徳川家康を最前線の弾正山に配置した。
一方、長篠城を取り囲んでいた武田勝頼軍は包囲を解き、茶臼山付近に布陣する織田・徳川連合軍に連吾川を挟み対峙した。
二十一日早朝、織田・徳川連合軍3万8千人に対して、武田軍1万5千人は、雨催いの中進軍を試みたが、三段に設けられた馬防柵、土塁、火縄銃に行く手を遮られ、一部が馬防柵を突破するも、時間と共に信玄以来の武将の相次ぐ討死等損害を積み重ね、遂には撤退を余儀なくされた。
武田軍は1万2千人を失い撤退する中で、追撃する織田・徳川連合軍も5千を失う激戦であった。『現地説明板』より。