小折城 (こおりじょう) (生駒屋敷)
所在地 愛知県江南市小折町八反畑147 2014.12.11 2015.5.2
小折城 (こおりじょう) (生駒屋敷)
所在地 愛知県江南市小折町八反畑147 2014.12.11 2015.5.2
生駒氏の邸址碑
移築中門
由来文
【遺構★★☆☆☆】
【案内・感想】 布袋東保育園(表記番地)の南西隅の一区画に、「生駒氏の邸址」の石碑、「生駒屋敷(小折城)」の説明板が建てられている[マップコード4 795 763*80] (地図)。
絵図によると、本丸、二の丸、三の丸、西の丸、吉乃御殿などがあり、大規模な屋敷であった。現在明治初めに移築された生駒屋敷中門が、県道172号線に面した廣間家に保存されている(江南市布袋町中200)。
生駒氏は藤原忠仁の子孫で、大和国生駒山麓谷口村に住んでいたが、文明年間(1469~87年)に生駒家広が応仁の乱の戦禍を逃れ、寂れていた林氏の旧領尾張国小折に移住した。後の岩倉街道などが通る交通の要所であったことから生駒氏は馬借として財を成し、代々織田氏と関わり勢力を拡大するようになった。
最大時には飛騨から東三河にまで商圏を拡大していた。生駒氏が権力を持ち表舞台に出始めたのは、生駒家宗の娘・吉乃が織田信長の側室となり、長男・織田信忠、次男・織田信雄を産んだ頃であり、この頃に小折城が築かれた。
【歴史】 生駒屋敷が織田・豊臣時代の歴史的舞台として注目され始めたのは、織田信長や豊臣髭吉の参謀格として働いた前野氏(吉田氏)の子孫が編纂した『武功夜話』が世に出たことによる。
それによると、秀吉は幼少のころ日吉丸といい、矢作川の橋の上で蜂須賀小六と出会ったという定説に対して、弘治元年(1555年)生駒屋敷を訪れ、小六の輩下となった。そのとき信長室「吉乃の方」のとりなしで信長の下僕に拾いあげられ、仕官はこの屋敷の二の丸の一隅であったと記されている。
永禄三年(1560年)桶狭間の戦いの奇襲、西美濃攻めの戦略はこの地で練られ、蜂須賀小六、前野小(将)右衛門等によって国々の情報を集め、戦費は生駒八右衛門家長によって賄われた。
永禄六年(1563年)小牧山築城に始まる尾張北部の平定で秀吉(当時は藤吉郎)も鉄砲足軽百人組の頭に頭角を現した。
天正十二年(1584年)小牧・長久手の戦いの最前線となり城は大幅に改修された。
織田信雄が追放された後、家長は隠居していたが、息子の生駒利豐は豊臣秀吉に仕え、関ヶ原の戦いの後は徳川家康に懇願され松平忠吉に仕えるため尾張に残った。その後、生駒利勝は尾張藩主徳川義直に仕え、子徳川綱誠の守役となり、子孫は家老となり4千石を領した。
慶長二十年(1615年)発令の一国一城令により小折城は廃城となり生駒家の中心が名古屋城下に移ったが、在所持ちを許され周辺領地と遺構は縮小されるも、そのままに生駒氏下屋敷として隠居所の機能を果たしながら存在した。給地換えの際にも在所の小折村を失うことなく明治時代を迎えた。
明治以降、武家解体の後に下屋敷は処分された。明治十三年~四十年まで高等小学校が建てられていた。
昭和五十年保育園が建てられた。