大河内城 (おかわちじょう) (県の史跡)
最寄地 三重県松阪市大河内町424 2016.4.3
大河内城 (おかわちじょう) (県の史跡)
最寄地 三重県松阪市大河内町424 2016.4.3
登城ルート(緑線は車道)
公園石垣
馬場跡
本丸跡
大河内城址碑
空堀・橋
空堀
二の丸跡
大河内城 本丸跡(地図)
【遺構★★★☆☆ 比高40m】
【案内・感想】 国道166号線の西蓮寺(表記番地)に向かう交差点横に説明板が建てられ、「大河内公民館」駐車場が用意されている[マップコード80 072 525*34]。西に100mほど行った西蓮寺駐車場も利用できる。
西蓮寺前を北に50m行くと案内標識がある。登ってゆくと石垣の公園があり、鳥居を潜って行くと、公園となり馬場跡、納戸跡がある。
西に本丸跡があり神社が建てられている。植込みの中に「大河内城址碑」の石碑が建てられている。
その西に、まむし谷と呼ばれる空堀があり、橋が架けられ二の丸に続いている。平坦な二の丸には神社が建てられている。
昭和十二年(1937年)11月5日、三重県の史跡に指定された。
【歴史】 応永二十二年(1415年)、南朝の伊勢国司・北畠満雅が両統迭立を履行しない幕府に対する挙兵時に、備えとして築城し、弟の北畠顕雅を入れた。これにより顕雅は、北畠氏庶流・大河内氏の祖となった。
顕雅は、兄・満雅をよく助け活躍したが正長元年(1428年)、満雅が討ち死にすると、その子・教具はまだ7歳であった為、顕雅が職務を代行し、足利義教(よしのり)との和睦交渉を纏めた。
伊勢北畠氏からは大河内(おかわち)、木造(こつくり)、坂内、田丸、星合、岩内、藤方、波瀬の諸氏が分かれ出て、それぞれ御所と称した。
木造御所は北畠庶流の筆頭であったが、木造御所は度々幕府側に付き、宗家と対立した。そのため田丸御所(田丸城)・坂内御所(坂内城)・大河内御所(大河内城)の三家が北畠三御所となり、なかでも大河内御所は代々筆頭とされ、宗家が絶えたときは、これを継ぐ立場であった。
永禄年間、前伊勢国司であった北畠具教が、織田信長の伊勢侵攻に対し、嫡子・具房と共に多気の霧山城(北畠神社)より大河内城に本拠地を移し、永禄十二年(1569年)八月二十八日より籠城戦を行うも、信長の次男信雄に北畠の家督を譲る条件で和睦し、十月三日、具教(とものり)、具房親子は城を退去した(大河内城の戦い)。
天正四年(1576年)、信雄が南伊勢を統治する拠点を田丸城に移したため、廃城となった。『ウィキぺディア』より。