大桑城 (おおがじょう)
最寄地 岐阜県山県市大桑3615‐1 2014.11.27
大桑城 (おおがじょう)
最寄地 岐阜県山県市大桑3615‐1 2014.11.27
登城ルート
登り口・林道開通碑
伝猿馬場
伝台所
主郭西側石垣
主郭跡・城址碑
城址碑
天守台・古城山頂上・三角点
天守模型
大桑城 本丸跡(地図)
【遺構★★★☆☆ 比高130m】
【感想】 峠からも結構な登りだが、昔の武者は麓から登っていたと思うと健脚ぶりが偲ばれる。
天守台野周りに少し下がって石垣や曲輪跡が残っている。また東端に天守縮小模型があったが、果たしてこんな立派なものが戦国時代にあったのだろうか?
【案内】 老人ホーム「椿野苑」(表記番地)より北に、「はじかみ林道」を約2㎞登った峠に駐車場があり、「古城山」の説明案内板が建てられている[マップコード289 213 003*68](地図)。
登り口より西に「猿馬場」を過ぎて約400m行き、一旦尾根の岩を登り、さらに南面の遊歩道に降り、再び300m登ると城跡南の「台所」曲輪に着く。
「台所」曲輪に「土岐頼親城址」の石碑があり、祠がある。その上段に細長い天守台があり、東端に三層のミニチュア模型の天守が建てられている。
標高407.5m(駐車場より比高130m)の古城山(金鶏山)の山頂に本丸があり、その南西に台所、二の丸・三の丸が続き、400mにわたって曲輪が連なっている(案内板地図参照)。本丸の西斜面に石垣が残り、帯曲輪がある。
【歴史】 『美濃国諸旧記』によれば、逸見義重が承久の乱の功績によって大桑郷を領地とし、子の大桑又三郎が大桑城を築いたとされる。
また、美濃国守護職土岐成頼の三男の土岐定頼が明応五年(1496年)に改築し、大桑兵部大輔と名乗って一代限りで住んだともいう(後に大畑と改姓)。
その後は土岐頼純・頼芸の兄弟が居城とした。永正六年(1509年)には守護代の斎藤氏が台頭してきた事もあり、土岐氏は拠点を川手城から福光館(現岐阜市福光)に移し、さらに天文元年(1532年)に枝広館(現長良高校付近)に移した。
天文四年(1535年)七月一日、長良川の洪水で枝広館は流失したため、当主の土岐頼芸(よりのり)は拠点を稲葉山山麓に拠点を移した。また、土岐頼純は越前国の朝倉氏の協力で大桑城を拠点とし、城下町を開く。
『美濃国諸旧記』によれば、天文十一年(1542年)に斎藤道三に攻められ頼芸は城を出たが、尾張国の織田信長の仲介で和睦し帰城した。
しかし天文十六年(1547年)に道三が再び侵攻すると落城して頼純は討死し、頼芸も本巣郡河内(現・本巣市)に逃れ、大桑城は道三によって焼かれた。