大給城 (おぎゅうじょう) (国の史跡)
所在地 愛知県豊田市大内町下河内向 2014.12.12
大給城 (おぎゅうじょう) (国の史跡)
所在地 愛知県豊田市大内町下河内向 2014.12.12
登城ルート
開通碑
登り口
石碑・堀切
水の手曲輪・堤防
主郭・石塁
主郭・城址碑
館跡
大給城 主郭跡(地図)
【遺構★★★★☆ 比高25m 】
【案内・感想】 下河内向の国道301号線より南に登る道入口に標識と開通碑がある。約600m行った峠付近に駐車スペースがあり、左(北)に「大給城址」登り口がある[マップコード 30 177 869*87 ](地図)。
100mほど登ると、右手に「松平乗元の墓」がある。左に行くと堀切があり「松平氏遺跡」の石碑がある。西に登ると腰曲輪・虎口、櫓台があり、虎口を経て上段に二の曲輪がある。
北に降ると、水の手曲輪があり、石塁の堤防のある取水施設跡が二段になって残っている。堤防のうち一つは幅30m高さ5mの大規模なものである。
主郭虎口の西に石塁があり、花崗岩の巨石の上に「大給城址・愛知縣」の石碑、案内板が建てられ、四阿が設けられている。主郭は東西45m南北20mの広さがあり、巨岩が散在している。西の端に物見岩がありここから、「東海環状自動車道」や豊田市街が望める。
その北の下段に腰郭あり、物見岩の西に下ると堀切がある。本丸から南に小曲輪が幾つかあり、その南に広い「館跡」がある。
平成十二年(2000年)2月4日、「松平氏遺跡」(松平東照宮、高月院、松平城跡、大給城跡)として国の史跡に指定された。
【歴史】 本城はもと土豪長坂新左衛門の城であったが、岩津(岡崎市)に進出した松平宗家3代信光が攻略し、三男親忠(松平宗家四代)に与えた。
親忠は細川城(岡崎市)と共に、これを次男乗元に譲り、乗元が大給松平氏の初代となった。
大給松平2代乗正は永正七年(1510年)までに城の大修築を行った。以後、3代乗勝、4代親乗、5代真乗と続いた。大給松平氏は周囲の松平一族と度々抗争を繰り返し、天文二十一年(1552年)、四代親乗の時、東条松平家の松平忠茂に大給城を攻められ、忠茂と戦った。
弘治元年(1555年)八月、今川義元に命じられて織田氏の居城・蟹江城を攻めた。
弘治二年(1556年)に滝脇松平家の滝脇城を攻め、松平乗清・乗遠親子を戦死させた。天正三年(1575年)に滝脇松平家乗遠の次男・乗高の夜襲を受け、親乗は尾張国に逃れ、城は放棄された。
天正十八年(1590年)六代家乗の時、徳川家康の関東移封に伴い、上野国那波に移り、大給城は廃城となった。