天方新城 (あまがたしんじょう)
最寄地 静岡県周智郡森町向天方1143‐1 2014.7.2
天方新城 (あまがたしんじょう)
最寄地 静岡県周智郡森町向天方1143‐1 2014.7.2
登城ルート(緑線は車道)
駐車場・天方城跡碑
空堀・土橋・土塁
空堀・土塁(南続き)
主郭
天方城趾碑
展望台
天方新城跡(地図)
【遺構★★★☆☆】
【案内・感想】 三鈴技研工業倉庫(表記番地)先(地図)より東に茶畑の中を約1.8km登った山頂(比高約190m)に城ヶ平公園として整備され、駐車場が用意されている[マップコード169 639 337*12] 。
東西100m南北60mほどの広さを持ち、内堀が北東から北、西にかけてあり、駐車場の東側に外堀がわずかに残り、南側は崖になっている。土橋が東と北にある。芝地の東側はブランコ等の遊具が設けられ土塁が残る。中央に城跡碑があり、西に展望台が設けられている。
【歴史】 天方山城守通興(別号天方四郎三郎)の代になり世は戦国の乱世を迎え、白山城より堅固な天方新城を築いた。
遠江、駿河を支配していた今川氏が永禄三年(1560年)桶狭間の戦いで今川義元の死により衰退し、永禄十一年(1568年)三河の徳川家康は遠州進攻を開始し、諸城を次々と攻略した。
一方甲斐の武田信玄も駿河を手に入れて、着々と西進してきた。天方通興は今川方の勇将として知られ、家康が浜松に入城してからも徳川に従う気もなく、家康に敵対していた為、永禄十二年 (1569年)六月十九日、家康は「遠州に居ながら徳川に帰伏せざれば」と、榊原康政、天野康景、大久保忠隣(ただちか)を先陣にして、まず飯田城へ殺到して攻め落した。
飯田城主・山内対馬守通泰とその一党が悉くが討死したが、通泰の庶子伊織が、家臣の梅村彦兵衛に伴われて三河 へ落ちのびた。
それから天方城攻略のため進撃し、城門を打破り、二の丸に押し入り激しい攻防戦が繰り広げられた。通興もよく防戦したが遂に力尽き、降伏した。
翌、元亀元年 (1570年) 十月ころには武田氏による北、中遠方面に対する誘降工作が活発となり、天方城にもその手が伸びた。「天方山城守、兵備を整え不穏なり」と命令に従わずに軍兵を集めて立籠もったとして再び大須賀康高、榊原康政ら徳川の軍勢に攻められた。
天方通興は徳川勢が外曲輪に迫ると、二心のないことを誓って開城し、再び徳川家康に降った。
元亀三年 (1572年)九月下旬、武田信玄は四万余の大軍を率いて犬居城主天野景貴の案内で天方城にせまってきた為、武田勢に通興は一戦も交えることなく城を出て徳川方に逃げた。信玄は久野弾正忠宗を城将として守らせた。
翌、天正元年 (1573年)三月家康は、武田の手に落ちた諸城の奪回戦を開始した。久野弾正は城兵を指揮して大手門を出て戦い、寄せ手の大久保忠隣、渡辺半蔵らに烈しく攻められ、三日後、兵糧を断たれた久野弾正は夜陰に紛れて逃走、城は徳川の手に帰した。
遠江国風土記には、のちにまた甲州の城となったが、天正二年 (1574年)三月に家康は遠州の軍兵を率いて天方城を攻め三日のうちに攻略、この城に軍兵を置くとある。
同年四月には、家康は犬居城主・天野景貫を討つために出陣し、このとき通興は、大久保忠世に属して道案内をしたが、途中、大雨で大水が出て兵糧もなくなったため、退却することになった。
すると犬居城主天野景貴は追撃を開始し、さらに光明城、樽山城の城兵、郷民らの待ち伏せに遭った為、家康は天方城へ逃げ込んだ。
天正七年 (1579年) 七月、家康の同盟者・織田信長に、家康の正妻・築山殿と長男・信康が武田方に内通したとの報がもたらされ、この信憑性は非常に薄いものであったが、信長は家康にこの二人を処断するよう求めた。
家康は悩んだ末、まず築山殿を殺害、さらに九月十五日、かねてから二俣城に幽閉させていた信康を切腹させた。このとき服部半蔵が介錯人を務め、天方通興の子、通綱が検分役であった。信康が切腹した際、服部正成(半蔵)が涙のあまり刀が振り下せず介錯できなかった為、通綱が代わりに介錯をした。このため主君である家康の長男の首を落としたという自責の念にかられ高野山に登り仏門に入った。
その後、越前松平秀康 (結城秀康・家康二男) に仕え、越前天方氏の宗家となり、その子孫は明治まで松平氏に仕えた。通興は、通綱が高野山に登った為、天方家の存続を図る為、外孫の青山忠成の五男、通直を養子にした。その後、通興の没後まもなく城は、廃城となった。
また、通興の養子となった通直は幼少のときより家康に奉仕して慶長十九年 (1614年) の大阪冬の陣に供奉し、慶長二十年 (1615年)五月 の大阪夏の陣の際には、徳川秀忠に従い天王寺・岡山の戦いに戦功をあげた。
後に御書院番に列し、元和六年 (1620年) 正月には御小姓組頭となり、さらに元和九年(1623年)正月に、御書院の組頭に栄転し、同年九月より江戸城西城に勤仕した。
寛永二年 (1625年) 十一月二十三日には、上総国武射、下総国葛飾、香取相模国高座四郡の2千2百50石の朱印状を給わった。そして、寛永三年従五位下備前守に叙任された。寛永七年(1630年)通直は逝去した(享年42)。
通 直より4代後の通展のとき (享保十七年 (1732年) 閏五月十五日) に家号を青山氏に改めた。『森町教育委員会説明板』より。