野田城 (のだじょう) (根古屋城・三河野田城)
最寄地 愛知県新城市豊島竜谷5‐14 2014.6.14
野田城 (のだじょう) (根古屋城・三河野田城)
最寄地 愛知県新城市豊島竜谷5‐14 2014.6.14
三の丸空堀
説明板
二の丸空堀
二の丸
空堀・土橋・本丸
本丸
本丸土塁・城址碑
井戸
野田城 本丸跡(地図)
【遺構★★★☆☆】
【案内・感想】 伊那街道「豊島」交差点より南へ㈱金山(表記番地)の道路反対側に「三の丸跡」の標識、空堀があり、更に南の本丸入り口に説明板が建てられている[マップコード43 761 435*61]。
三の丸の南に二の丸跡・本丸跡と200m余にわたって並び、三の丸の北に大手、侍屋敷がある。
二の丸と本丸の間は空堀で仕切られ、土橋でつながれている。本丸の北には土塁が築かれ北東隅に「野田城稲荷」が祀られ、曲輪の南に井戸がある。曲輪に武田信玄が鉄砲傷を負った場所に由緒の看板が立てられている。
二の丸は西に模擬門の登り口(当時はなかったと思われる)があり杉林となっており、説明看板が建てられている。
東西に二本の川に挟まれた最大巾60mの細長い台地上にあり、新城市の指定史跡になっている。
【歴史】 永正五年(1508年)菅沼定則によって築城され、居城とした。
その後定則の子・菅沼定村、孫・菅沼定盈(さだみつ)が居城とした。
弘治二年(1556年)今川氏の命で雨山合戦に出陣した菅沼定村は討ち死にした。
永禄三年(1560年)桶狭間の戦いの後、永禄四年(1561年)今川氏を離反した定盈は、今川勢に攻囲され開城、降伏し隣郡八名郡の親戚西郷氏のもとに逃れた。
翌永禄五年(1562年)定盈が夜襲で奪回するも、損壊の激しい野田城は修築に時を費やされた。定盈は、仮本拠を大野田城に定めている。
元亀二年(1571年)武田信玄の遠江・三河侵攻において武田家臣山県昌景・小笠原信嶺(のぶみね)らの襲来により、大野田城は大破炎上した。
同年十二月、定盈は修築中の野田城を再び本拠としたという。(なお近年では元亀二年の遠江・三河侵攻については根拠となる文書群の年代比定が再検討され、一連の経緯は天正三年の長篠の戦いの前提である可能性が指摘されている。
元亀四年(1573年)一月武田信玄は宇利峠を越え三河に侵攻し、野田城を攻めた。水の手を断たれて、家康の援軍もなくついに城主・定盈は開城降伏した。
天正十八年(1590年)徳川家康が関東へ移封されると、定盈も付き随った。
その後、吉田城に入った池田輝政の代官が新城を利用し、野田城を破却、廃城となった。