大高城 (おおだかじょう) (国の史跡)
最寄地 愛知県名古屋市緑区大高町向山16 2014.6.14
大高城 (おおだかじょう) (国の史跡)
最寄地 愛知県名古屋市緑区大高町向山16 2014.6.14
説明案内板
登城ルート
南側空堀・土橋
虎口・土塁
二の丸
本丸・天守台
大高城址跡碑
城山八幡社
大高城 本丸跡(地図)
【遺構★★★★☆】
【案内・感想】 現在は比高約20mの丘陵に「大高城址公園」として整備されている。駐車余地は少ない。
「大高保育園」(表記番地)東の路地[マップコード17 817 194*78] から入り、60m北を西に折れ、廃屋の前の狭い道を進むと、二ノ丸の土塁がある。
北東に行くと内空堀が残り、土橋を渡ると東西60mほどある本丸跡である。
本丸の北に一段高く天守台があり、城山八幡社が祀られ、城跡碑(明治四十年)が建てられている。
本丸を北に下りる大手道の横に帯曲輪があり遊園地などになり、城跡碑、説明看板がある。周囲には住宅が建て込んでおり、外堀土塁などは急傾斜の地形を安全上の理由から改変し、石垣もセメントを入れて積み直され、昔日の面影は薄い。
昭和十三年(1938年)12月14日、丸根砦跡・鷲津砦跡と共に国の史跡に指定された。
【歴史】 築城年代ははっきりしないが、南北朝期には池田頼忠が城主を務め、永正年代には花井備中守や、水野為善と子・忠守が居城したことが伝えられている(為善については異説もある)。
天文年間も引き続き水野氏が治めたが、はじめ今川氏に属し、後に織田信秀の支配下に入った。
天文十七年(1548年)、今川義元の命で野々山政兼がこの城を攻めたが、落とすことができず政兼は戦死した。
しかし信秀の死後、子の織田信長から離反し今川方についた鳴海城主・山口教継(のりつぐ)左馬之助の調略により奪取され、大高城は沓掛城(後の加納城)と共に今川方の手に落ちた。
その後駿河へ呼び寄せられ子・教吉共ども切腹させられた。山口父子の殺害は信長の調略ともされる。信長は丸根砦、鷲津砦を築き、大高城に圧力をかけた。
永禄二年(1559年)、朝比奈輝勝が義元の命をうけ大高城を守った。翌、永禄三年(1560年)信長の大高城の包囲を破り、そのまま今川方の鵜殿長照が守備についた。
五月十八日夜には、大高城に今川方の松平元康が兵糧を届け、長照に代わり元康が城の守備についた。鵜殿長照に桶狭間に向かう織田信長の背後を攻めるよう命を受けたが、元康は固辞した。
やがて信長の攻撃による義元の死(桶狭間の戦い・同年五月十九日)を確認した元康は岡崎城に引き下がったため、大高城は再び織田家の領土となった。
まもなく廃城となったが、元和二年(1616年)尾張藩家老の志水忠宗が城跡に館を構え志水家が、代々住むようになった。この館も明治三年(1870年)に廃止、売却された。