高天神城 (たかてんじんじょう) (鶴舞城) (国の史跡)
所在地 静岡県掛川市上土方嶺向2650 2014.7.2
高天神城 (たかてんじんじょう) (鶴舞城) (国の史跡)
所在地 静岡県掛川市上土方嶺向2650 2014.7.2
登城ルート
北側の搦手門跡・城跡碑
井戸曲輪
堂尾曲輪西空堀
本丸跡
本丸跡・高天神城址碑
御前曲輪・模擬天守土台
高天神城 本丸跡(地図)
【遺構★★★★☆】
【案内・感想】 北側の搦め手口[マップコード83 394 496*26] (地図:高天神社の参道で井戸曲輪に出る)と南側大手口[マップコード83 394 205*28] (地図:三の丸に出る)の二ヶ所に駐車場が用意されている。
標高132mの山頂に本丸があり、南に元天神社、模擬天守の土台の残る御前曲輪、四阿の建つ三の丸と並んでいる。
本丸の西下段に的場曲輪があり、搦め手道の横に三日月井戸がある。西に行くと鐘曲輪、井戸曲輪(地図)があり、井戸、尾白稲荷天神社、「高天神城合戦将士英魂之碑」がある。
石段を登った高台に社務所のある西の丸となり、高天神社(表記番地)拝殿・神楽殿が建てられ、「高天神城記」の石碑がある。西に堀切を経て馬場平がある。四阿が建てられ、甚五郎抜け道に続く。
戻って井戸曲輪の北に二の丸、袖曲輪、堂尾曲輪があり、その西に空堀・堀切がよく保存されている。袖曲輪を下りた所に討死した「天正二年戦死者之碑」の石碑、「本間八郎三郎氏清・丸尾修理亮義清」の墓碑(元文二年・1737年)がある。
昭和五十年(1975年)10月16日、国の史跡に指定された。
【歴史】 延喜十二年(912年)藤原鶴翁山頂に宮柱を建つとある。 治承四年(1180年)謂伊隼人直孝が砦を築いた。
建久二年(1191年)土方(ひじかた)次郎義政が城砦を築いた。 文安三年(1446年)福島佐渡介基正が城主となった。
文明三年(1471年)福島上総介正成が城主となった。 天文五年(1536年)小笠原右京進春儀が城主となった。
天文十一年(1542年)小笠原彈正忠氏清が城主となった。 永禄三年(1560年)城兵、桶狭間に出陣した。 永禄七年(1564年)小笠原与八郎長忠(信興)が城主となった。
永禄十一年(1568年)信興は徳川氏に従属した。 翌年、城兵掛川に出陣した。
元亀元年(1570年)城兵が姉川に出陣した。 翌、元亀二年三月武田信玄の兵2万5千騎が来攻包囲し、城兵2千騎は籠城した。 翌年、家康に付いて城兵が三方原に出陣した。 天正元年(1573年)城兵が諏訪原に出陣した。
天正二年(1574年)五月武田勝頼の兵2万騎が来攻包囲した。六月十八日大手門の戦が起きた。六月二十八日二の丸が陥落し、七月二日徳川家康の援軍が望めなくなって休戦し、小笠原信興(氏助・軍記物で長忠)は勝頼に降伏し、九日開城した。
信興は駿河国庵原郡・富士郡(鸚鵡栖)に、1万貫と国替されほどなくして病死した。武田方の横田甚五郎の将兵1千騎が入城した。
天正八年(1580年)徳川家康に包囲され的場曲輪の戦い、二ノ丸の戦いを経て、天正九年(1581年)三月二十二日、城兵総突撃し全滅し、落城した。
その後廃城となった。横田伊松(ただまつ・幼名甚五郎)は甲斐に逃れ、武田氏が滅亡すると家康の家臣となった。この時の抜け道が馬場平の西に残る。
享保九年(1724年)高天神社が現在の西峰に遷された。元文二年(1737年)本間惣兵衛が「本間八郎三郎氏清・丸尾修理亮義清」の墓碑を建てた。