上野原城 (うえのはらじょう) (内城館)
最寄地 山梨県上野原市上野原1918 2015.8.23
上野原城 (うえのはらじょう) (内城館)
最寄地 山梨県上野原市上野原1918 2015.8.23
説明板
稲荷神社・説明板
中央自動車道の左側が城跡
【遺構★☆☆☆☆】
【案内・感想】 中央自動車道北の(表記番地)横の稲荷神社に説明板が建てられている[マップコード348 148 434*02](地図)。
元の城地は、南に鶴川、東から北にかけて深い谷に囲まれた島のような土地にあり、面積約1万1千㎡で、西に空堀があったといわれている。
現在は、空堀は埋められ、城地の北半分は住宅地、南半分は中央自動車道となり遺構は消滅している。
昭和四十五年(1970年)3月20日、旧上野原町の史跡に指定された。
【歴史】 武蔵七党(横山党、猪俣党、野与党、村山党、西党、児玉党、丹党)の一つ八王子の横山党から分かれた横山忠重が、康治年間(1142~44年)古郡郷の別当大夫となり、古郡姓を称し移り住み、上野原城を築いた。
古郡氏は現上野原市から大月市域まで支配したが、建暦三年(1213年)、古郡保忠の時に、和田合戦で敗れ滅亡した。
その後、武田信玄の時代には、都留郡上野原の国衆で、武田氏の家臣・加藤景長が入城した。加藤景長は上野原七騎と共に武田氏による北条攻めなどに活躍したが、天正十年(1582年)武田勝頼が織田信長に敗れ、武田氏と共に滅亡した。『上野原市教育委員会説明版』より。