今泉城 (いまいずみじょう)
最寄地 富山県富山市今泉220 2014.10.5
今泉城 (いまいずみじょう)
最寄地 富山県富山市今泉220 2014.10.5
説明板
村社日枝社
今泉城址碑・説明板
【遺構★☆☆☆☆】
【案内・感想】 主曲輪は、現在「いま泉病院」(富山市今泉220)及びその駐車場付近にあったが、遺構は消滅している。
北東約100mにある日枝神社の片隅に「今泉城址」の石碑と説明板が建っている[マップコード40 326 001*56] (地図)。
文化九年(1812年)に測量された『今泉城古図』によると東西三十三間(約60m)、南北五十六間(約100m)の単郭でその外側に堀を巡らした、やや楕円形に近い形状であった。また城の周囲は沼地や湿地帯となっており、天然の要害であった『富山市教育委員会説明板』という。
飛騨街道や神通川が近くを通っており飛騨国、越中国間の陸運、水運を押さえる目的も有していたと思われる。
【歴史】 元亀二年(1571年)飛騨の国人で塩屋秋貞が、北上して越中へ侵入し、越中国戸川城に拠っていた今泉城を攻略したという。
この時の城主は不明だが、今泉城が在った越中国太田保は当時椎名氏の影響下にあった事から、椎名氏の管轄下にあったと思われる。
天正二年(1574年)前年に上杉謙信より越中国太田下郷(太田保に比定される)を拝領した河田長親が普請を開始した。長親は今泉城に代官を置いて周辺を支配した。
天正六年(1578年)三月、謙信が死去し御館の乱が起きると、越中国にも動揺が広がった。
河田長親は引き締めに努めるが、この状況を好機とみた織田信長は越中国人衆に調略を仕掛けて越中国城生城主斎藤信利、信吉兄弟等を寝返らせると共に、飛騨国から神保長住、斎藤利治(新五)等を送り込んだ。
越中国津毛城を攻略し、太田本郷城に入った織田勢は更に北進して今泉城を攻めるも、長親や長尾景直率いる上杉守備勢の激しい抵抗に遭い撤退した。
河田長親は追撃したが、それを逆手に取った斎藤利治は月岡野へと誘い込んで逆襲し、上杉方の完敗に終わった(月岡野の戦い)。その煽りを受けて今泉城も信吉等によって攻め落とされた。その後今泉城は斎藤兄弟の管轄下に置かれた。
天正六年十二月に「椎名駿河守」(景直か)なる者が上杉方から織田方へと寝返って、その見返りとして信長より越中国太田保を賜っており(『織田信長朱印状』)、彼が今泉城へ入った可能性もある。いずれにせよこの後今泉城の名が史料では見えなくなる為、暫くして廃城になったと思われる。
天正十年(1582年)三月、織田勢が上杉方の越中国魚津城を攻めた。「椎名駿河守」も織田方として出陣しているが、これ以降「椎名駿河守」の名は史料から見えなくなる。
同年六月二日、本能寺の変が起き、その後斎藤兄弟は上杉方へ寝返り、翌天正十年、佐々成政によって居城である城生城を攻められた。
一年余りの籠城戦の末に落城し、斎藤兄弟は飛騨国の三木氏を頼って落ち延びた。