松本城 (まつもとじょう) (深志城・烏城) (国の史跡・日本100名城29)
所在地 長野県松本市丸の内4 2011.6.7
松本城 (まつもとじょう) (深志城・烏城) (国の史跡・日本100名城29)
所在地 長野県松本市丸の内4 2011.6.7
南入口
南西側堀・天守・小天守・辰巳附櫓・月見櫓
西側の内堀・埋橋
黒門・二の丸側内堀
黒門
本丸・天守
本丸北側土塁
高麗門・二の門桝形・奥に太鼓門
二の丸の太鼓門
二の丸御殿跡
松本城 本丸(地図)
【遺構★★★★★】
【案内・感想】 松本城の北側の通りにある有料駐車場が利用できる[マップコード75 851 345*08](地図)。
本丸の南西に現存十二天守の一つで国宝(犬山城、姫路城、彦根城、松本城)に指定されている天守閣があり、巾50mの内堀に石垣と共に映る姿は、落ち着いて且つ優美である。
本丸南東の黒門・二の門・袖塀が平成二年、二の丸東の太鼓門・桝形が平成十一年(1999年)に復元されている。
また二の丸南東には市立博物館、北東には二の丸御殿跡が平面復元され、土塁上に隅櫓跡がある。
本丸御殿跡に入ると中国語、英語の飛び交う観光客でにぎわっている。手入れの行き届いた芝生の御殿跡広場の南西に五重六階天守閣、三重乾小天守、渡し櫓、辰巳附櫓、月見櫓があり国宝に指定されている。
本丸の北西の内堀に朱塗りの埋橋が架けられている。三重の堀であったが、松本城の太鼓門東に外堀、県道「深志橋」交差点付近に惣堀が残る。
昭和五年(1930年)11月19日、国の史跡に指定され、平成十九年(2007年)2月6日追加指定された。平成十八年(2006年)4月6日、日本100名城(29番)に選定された。
【歴史】 戦国時代の永正年間(1504~21年)初めに、松本平の信濃府中に館を構えていた信濃守護の小笠原氏が東の山麓に林城を築き、その支城として深志城が築かれた。
後に武田氏の侵攻を受け、天文十九年(1550年)七月十五日には林城・深志城などが落城し、小笠原長時は追放された『高白斎記』。
武田氏は林城を破棄して深志城を拠点として、松本平を支配下におき、信濃小県郡の村上義清、越後国の長尾景虎(上杉謙信)と抗争し、北信に至る信濃一帯を領国化した。
天正十年(1582年)武田氏滅亡後、徳川家康の配下となった小笠原貞慶(長時の三男)が、旧領を回復し、松本城に改名した。
天正十八年(1590年)秀吉による小田原征伐の結果、徳川家の関東移封が行われ、当時の松本城主・小笠原秀政も下総古河城へ移り、代わって石川数正が入城し、数正とその子・康長が天守、城郭、城下町の整備を行う。
現在残る天守・小天守は康長の文禄二~三年(1593~94)と考えられている。
その後大久保長安事件により石川康長が改易となり、小笠原秀政が復帰した。慶長二十年(1615年)大坂の陣以後は、戸田松平氏二代、松平直政、堀田正盛、水野氏六代が続いた。六代水野忠恒は不行状により享保十年(1725年)改易された。
同年十月鳥羽藩主・松平光慈が移封され、以後戸田松平氏九代が居城し、明治維新を迎えた。
後戸田氏の享保十二年(1727年)本丸御殿が焼失し、以後松本藩の政務は二の丸御殿(明治九年不審火で焼失)で行われた。
明治維新後、明治五年(1872年)に天守が競売にかけられ、一時は解体の危機が訪れるが、市川量造ら地元の有力者の尽力によって買いもどされて難を逃れた。
明治九年(1876年)6月19日、 不審火により、当時筑摩県庁となっていた二ノ丸御殿が全焼した。
明治三十六年(1903年)大きく傾いた天守の大修理が着手され、大正二年(1913年)完工した。