上原城 (うえはらじょう) (県の史跡)
最寄地 長野県茅野市ちの1753 2014.11.6
上原城 (うえはらじょう) (県の史跡)
最寄地 長野県茅野市ちの1753 2014.11.6
登城ルート(緑線は車道)
諏訪氏館跡碑
諏訪氏館跡
城跡東の竪堀
大空堀
三の郭・金比羅神社
二の郭
主郭・土塁・説明板
主郭・土塁
上原城 主郭跡(地図)
【遺構★★★★☆】
【感想】 永明山から西に伸びた標高978mの尾根先端部に築かれている。
天文十一年(1542年)武田信玄に滅ぼされるまで、諏訪氏の居館・詰城で、約30m四方の主郭には土塁が残り、三角点がある。
三の郭から眼下に茅野市街、諏訪市街、諏訪湖が望める。
【案内】 国道20号線「上原頼岳寺」交差点より東に入った頼岳寺(表記番地)より、永明寺山公園に行く道路を約450m行くと、「諏訪氏館跡」の石碑及び碑文が建てられ、その背後の1ヘクタールの平坦地が居館跡がある(地図)。
更に約1.7㎞登った所に駐車スペースがある[マップコード218 603 639*32]。案内板と城跡碑が建てられている。
西に行ってすぐ右に本丸下の大空堀があり、はなれ山と呼ばれる出郭と隔てられている。通路の左下に竪堀がある。
石垣のある三の郭には金比羅神社(文化二年・1805年建立)が建てられ、左より登ると物見岩がある二の郭で、そこから5mほど登ると主郭である。
上原城の北西に桑原城、東に鬼場城、前方南に宮川を隔てて干沢城と対している。
昭和四十六年(1971年)5月27日、長野県の史跡に指定された。
【歴史】 築城年は定かではないが、文正元年(1466年)頃、諏訪惣領家当主信満が金比羅山中腹に居館を建てた。
以後政満・頼満・頼隆・頼重と5代70余年にわたり諏訪地方を統治したと考えられており、『守矢頼実書留』によれば上原町には堀廻りが存在し、信濃国衆の小規模城下町である「宿城」(町宿)であったと考えられている。
文明十五年(1483年)正月八日、大祝諏訪継満は祭政二権を得ようとして、惣領家諏訪政満とその子宮若丸を神殿で饗応し、酔いつぶれたところを謀殺した。
天文十一年(1542年)七月に諏訪頼重が甲斐の武田晴信(信玄)に滅ぼされると、宿老板垣信方など諏訪郡代が置かれ上原城は武田家の信濃領国支配の拠点の一つとなった。
板垣信方は武田氏の諏訪・佐久郡侵攻において先発隊を指揮しており、上原城配置以前から両郡における所領宛行などを行っている。信方は公式には諏訪郡司(郡代)の立場であったが、天文十七年(1548年)二月の信濃村上氏との合戦で戦死した。
信方の死後、上原城には弟の室住玄蕃充が派遣されるが、同年八月には長坂虎房(光堅)が配置された。
虎房は翌天文十八年正月に高島城(諏訪市高島)へ移り、以後諏訪郡司は高島城に在城した。天正十年(1582年)の織田氏の甲州征伐による武田氏滅亡と共に廃城となった。