金沢城 (かなざわじょう) (尾山城) (国の史跡・日本100名城35)
所在地 石川県金沢市丸の内1‐1 2013.7.11
金沢城 (かなざわじょう) (尾山城) (国の史跡・日本100名城35)
所在地 石川県金沢市丸の内1‐1 2013.7.11
石川橋・石川門
表門
五十間長屋・菱櫓
五十間長屋(南 続き)
丑寅櫓跡
本丸跡
工事中の橋爪門
内堀
南側のいもり堀・石垣
金沢城 本丸跡(地図)
【遺構★★★★★】
【案内・感想】 紺屋坂を登り、お堀通りに架かる石川橋を渡る(地図) 。
独特の形の石川門の太鼓塀・表門・櫓門(重要文化財)より入ると三の丸広場であり内堀の先に二階五十間長屋が正面に見える。
東に行くと丑寅櫓台、辰巳櫓台があり、その南に重要文化財の鶴丸倉庫が保存され、石垣の上が本丸跡となっており、旧陸軍第九師団の駐屯時に開けられた石垣のトンネルが残る。
南西に戌亥櫓台、重要文化財の三十間長屋がある。二の丸広場(地図)より平成十三年復元された二階五十間長屋に入り、西隅の三階櫓(菱櫓)から北に堀や石川門の陽に輝くばかりの姿が望まれる。橋爪門は復元工事中(26年末まで)である。
東側の「いもり堀」が整備され(平成二十二年)、高石垣が壮麗である。北のお堀通りを挟んで五代藩主前田綱紀の時、造られた「兼六園」がある。瓢池や霞ヶ池があり浅野川より引かれた曲水が園内を巡り、しばし涼を楽しんだ。
石川門、三十間長屋、鶴丸倉庫が国の重要文化財になり、平成十八年(2006年)、日本100名城に選定され、平成二十年(2008年)6月17日、国の史跡に指定された。
【歴史】 天文十五年(1546年)空堀や柵などを備えた城郭造りの寺院であった尾山御坊が建立され、加賀一向一揆で支配権を得た本願寺の拠点となった。
天正八年(1580年)佐久間盛政が尾山御坊を攻め落し金沢城と称した。
天正十一年(1583年)賤ヶ岳の戦いの後、羽柴秀吉から加増を受けた前田利家が入城し尾山城と改称した。
天正十五年(1587年)バテレン追放令で除封されたキリシタン大名高山右近が利家に呼ばれ尾山城の大改造を行い、金沢城に改称された。
文禄元年(1592年)利家の子・利長が再び改造を行った。
慶長四年(1599年)利家が死ぬと、加賀東部と越中の合計83万石を領する利長と、能登に21万石を領するその弟利政に分割された。
翌、慶長五年(1600年)関ヶ原の戦いに際し、利長が東軍、利政が西軍に分かれ、敗れた側の利政は所領を没収され、かわりに利長が利政の旧領と加賀西部の西軍大名の旧領を授けられ、三ヶ国120石に及ぶ所領を得た。
のちに第三代利常(利長の弟)が隠居するとき、次男・三男を取り立てて支藩とし、越中富山藩10万石と加賀大聖寺藩7万石(10万石)をそれぞれ分与し、加賀藩4代光高には102万5千石が与えられ、以後、前田家の居城として続いた。
慶長七年(1602年)天守が落雷で焼失、代わりに三階櫓が建造された。寛永九年(1632年)辰巳用水が城内に引かれた。宝暦九年(1759年)宝暦の大火に見舞われた。
13代藩主慶寧(よしやす)の時、明治維新を迎え、明治二年(1869年)六月に金沢藩知事となり、明治四年(1871年)の廃藩置県により、八月に東京に移った。
明治六年(1873年)存城処分となり陸軍の駐屯地となった。明治十四年(1881年)火災により石川門、三十間長屋、鶴丸倉庫を残して焼失した。