浜松城 (はままつじょう) (曳馬城(引間城)・出世城)
所在地 静岡県浜松市中区元城町100‐2 2011.9.12 2017.2.2
浜松城 (はままつじょう) (曳馬城(引間城)・出世城)
所在地 静岡県浜松市中区元城町100‐2 2011.9.12 2017.2.2
二の丸跡
本丸跡・天守曲輪石垣
天守門
模擬復興天守・天守門
本丸跡・家康公銅像
銀明水井戸
埋門石垣
日本庭園
曳馬城遠景
曳馬城跡・元城町東照宮
浜松城 天守曲輪跡(地図)
【遺構★★★★★】
【案内・感想】 浜松城公園として整備され、駐車場が用意されている[マップコード26 162 225*06](地図)。
駐車場の南の二の丸跡は「元城小学校体育館」「浜松市役所」敷地となっている。
二の丸西側に一段高く本丸跡があり、「若き日の徳川家康公像」の銅像が建てられている。本丸には、南に鉄門、北の石垣上に富士見櫓、南東隅に菱櫓があった。
その西に天守門を備えた天守曲輪があり、野面積の石垣は見応えがある。天守台に三重の模擬復興天守が、昭和三十三年(1958年)に鉄筋コンクリート造で建てられ、内部は資料館(表記番地)として使われている。
城内に十本あった井戸の内一本が天守曲輪西の埋門横に残っている。
北に清水曲輪、西端城曲輪、作左曲輪があったが、跡地は日本庭園、芝生広場となっている。
また、駐車場の東の国道152号線を渡った東の丘に曳馬城(引間城)跡があり、現在「元城町東照宮」が鎮座している(地図)。
【歴史】 築城者については諸説あるが永正年間(1504~21年)に、瀬名姫(後に家康の正室となった築山御前)の先祖である今川貞相(さだすけ)が曳馬城を築城したと言われている。
永正十一年(1514年)今川氏親の配下・飯尾乗連が城主となる。
永禄三年(1560年)桶狭間の戦いに参加した乗連は今川義元の戦死による今川氏の衰退が始まるが、このころに飯尾氏の当主も子の連竜に移り替わった。
永禄八年(1565年)飯尾連竜が今川氏真に反旗を翻し今川軍に包囲され、和議交渉の最中殺された。
城は飯尾氏一族で守られたが、永禄十一年(1568年)徳川家康に攻略された。その時城中にて討死した連竜の未亡人・お田鶴の方が近くの「椿姫観音」として祀られている。
元亀元年(1570年)武田信玄の侵攻に備えるため、家康は岡崎城を嫡男・信康に譲り、遠江国曳馬城に城を移し、西南方向に拡張し浜松城と改称した。
元亀三年(1572年)信玄の兆発を受け浜松城を打って出たが、三方ヶ原の戦いで敗北した。
天正十四年(1586年)家康は駿府に移り、天正十八年(1590年)からは秀吉の家臣・堀尾吉晴とその次男・堀尾忠氏が十一年間在城し、関ヶ原の戦いの功で出雲国松江に移封された。
その後は桜井松平氏、水野氏、高力氏、大給松平氏、太田氏2代、青山氏3代、本庄松平氏2代、大河内松平氏2代、再び本庄松平氏2代、井上氏3代、水野氏2代、再び井上氏2代の譜代大名22名が次々入れ替わった。
明治元年(1868年)九月、井上氏第2代藩主・井上正直は徳川家達が駿河・遠江・三河を支配する駿府藩主になったことから、上総鶴舞藩(市原市)に移封され、これにより浜松藩は廃藩となった。
浜松藩領はその後、駿府藩を経て、静岡県に編入された。天守はなく本丸に在った二重櫓が天守の代用とされた。