霞ヶ城 (かすみがじょう) (手塚城)
最寄地 長野県諏訪郡下諏訪町上久保5828 2019.8.18
霞ヶ城 (かすみがじょう) (手塚城)
最寄地 長野県諏訪郡下諏訪町上久保5828 2019.8.18
説明板
北側道路
城跡・駐車場
金刺盛澄騎馬像
諏訪湖方面
霞ヶ城跡(地図)
【遺構★☆☆☆☆】
【感想】 諏訪上社秋宮南の台地にあり、駐車場となっている。
約60m四方の平坦地には、以前はホテルが建っていたが、撤去されていた。遺構は消滅しているが、北側の道路は堀跡と思われる。
【案内】 諏訪上社秋宮(表記番地)の駐車場となっている[マップコード75 266 458*48]。
駐車場の中央に「金刺盛澄騎馬像」が建てられ、北の秋宮とは朱塗りの欄干の橋で結ばれている(車通行可)。また、橋の横に説明板が建てられている。
【歴史】 鎌倉時代、手塚光盛の居城と云われる。
諏訪神社下社の大祝(おおほうり)で諏訪武士の統領金刺盛澄は木曽義仲を婿にとり、女子一人が出生し、義仲の義父となった。
義仲の平家討伐軍に加わり、弟・手塚太郎光盛と共に北陸路を攻め上がったが、例大祭の為途中帰国した。
弟・手塚太郎光盛は寿永二年(1183年)義仲に従い、俱利伽羅峠の合戦に参戦した。篠原の戦いに従軍し、斎藤実盛を討ち取った際の逸話は、『平家物語』において著名である。
寿永三年(1184年)正月、光盛は源範頼、義経の追討軍と戦い、主君義仲と共に戦死した。
元 暦元年(1184年)正月二十日義仲討死の後、盛澄は鎌倉へ召喚されたが、京都城南寺の流鏑馬に参加していたため、遅参した。このことが頼朝の怒りを買い処刑されることになったが、卓越した弓馬の技を見た頼朝に赦され諏訪に帰された。盛澄は鎌倉幕府の御家人となった。
光盛のあと、諏訪大社下社神官の金刺氏が代々居城となった。文明年間(1469~87年)頃になると金刺氏と上社大祝諏訪氏は政治姿勢の対立で内訌が激化した。
文明十五年(1483年)正月八日、諏訪大祝継満は、諏訪惣領家の政満と嫡子宮若丸等を上社の神殿に招き、饗応中に不意をついて謀殺し、祭政二権を得ようと画策した。
これに呼応するように下社の金刺興春が挙兵し、茶臼山城を占領し、桑原・武津に放火して上社を攻めた。しかし 上社方の守矢満実・矢崎政継・千野・福島・小坂・有賀らと、宮の腰での戦いで金刺興春は討たれ、下社の社殿を焼かれるなど大敗を喫した。
その後、興春の子盛昌、昌春と続くが、永正十五年(1518年)諏訪頼満によって萩倉の要害(山吹城)は落城し、金刺昌春は武田信虎を頼り、甲斐へ落ちのびた。