長森城 (ながもりじょう) (切通陣屋)
所在地 岐阜県岐阜市切通6丁目5‐7 2014.11.25
長森城 (ながもりじょう) (切通陣屋)
所在地 岐阜県岐阜市切通6丁目5‐7 2014.11.25
陣屋説明板
切通陣屋跡之碑
切通観音・石碑
由来石碑
【遺構★☆☆☆☆】
【案内・感想】 長森城、切通陣屋の形跡は全く無い。旧中山道の近くにある切通観音とその周辺が城址である。
切通観音(表記番地)に、「切通陣屋跡之碑」や由来石碑や陣屋説明板が建てられている[マップコード28 531 390*28](地図)。
碑文は以下の通り。「前略、ここは江戸時代、平藩(福島県いわき市)安藤氏が切通陣屋を置き、このあたりを始め方県郡、本巣郡の自領を支配していた。安藤氏は平に移封以前は加納藩主だった大名だ。ところで、ここはまたかって長森城があった所と伝えられ、川手城(岐阜城)に移るまでは美濃源氏の嫡流土岐氏の居城だった」。
【歴史】 文治年間(1185~90年)、長森庄(現岐阜市長森)の地頭の渋谷金王丸が長森城を築城した。
南北朝時代の暦応二年・延元四年(1339年)、第二代美濃国守護職の土岐頼遠が土岐郡(現土岐市)からこの長森城に移り、城郭として整備をした。代々土岐氏の居城となった。
文和二年(1353年)長森城が手狭になったため、第3代守護職・土岐頼康は川手城を築城、本拠地を川手城に移した。
長森城は土岐氏の土岐直詮が城主となった。土岐氏は以後川手城を本拠地とした。廃城時期は不明だが、斎藤道三が美濃国を支配し、拠点を稲葉山城に移した頃と思われる。
宝暦五年(1755年)、安藤信成が加納藩藩主となるが、翌年陸奥国磐木平に移封され、安藤信成は平藩藩主となり、やがて老中となる。
この実績により、美濃国1万8千石(厚見・方県・葉栗・本巣、四郡の一部)が加増された。この地を治めるために、享和三年(1803年)十一月、かつての長森城址に切通陣屋が築かれ、以後、安藤氏が治めることとなった。
陣屋には郡奉行2人、代官4人、与力5人、同心5人など22人ほどが詰めていた。平藩による支配は、飛び地支配のため問題多く、文政八年(1825年)長森騒動が起きた。
安藤氏7代にわたって67年に及ぶ支配を行ったが、明治四年(1871年)、廃藩置県により切通陣屋は廃止され、笠松県の一部となった。